「人生の時間配分」をとっぱらう
今日は、オイリュトミーをご存知な方がセッションを受けにきてくださいました。
嬉しいなー。
自分が別のセッションを受ける予定がキャンセルになり、代わりに遠隔セッションがふたつ。
何年かぶりで『シータヒーリング』の本を読んでいます。
信念システムと病気との関係のモデリングは、ボディートークと良く似ている。
わたしは寄生虫やバクテリアが大好きで、その勉強のついでに調理師の免許をとったくらいです。
皮膚の間を這う虫とか、大腸菌とかさ!!
なんでだろう、虫の世界は気持ちが高揚しちゃう。
歩きながら考え事をしていて、ふとこう考えている自分に気づきました。
わたしは、「根っからのヒーラー」じゃないから、ボディートーク創始者のジョンや、シータヒーリン創始者のヴァイアナみたいに、セラピーのアイディアを体系化していくのはできないなー、なぜなら、体系化して広めていくだけで、一生かかるだろうから。と。
「根っからのヒーラー」じゃないから、ボディートークも、インストラクターの方向にはいかないことを決めています。
そもそも、ヒーラーという言葉も使いません。
だって、先生はクライアントの体であり、ヒーラーもクライアントの体だから。
仕事でボディートークをやっている。それだけのこと。
わたしにとってはボディートークもオイリュトミーも手段でしかなく、それ自体に愛情を抱きにいのです。
ボディートーク愛!
オイリュトミー愛!
みたいな。そういうのが薄い。
過度な思い入れがないぶん目的と手段が入れ替わることもなく、中立な状態を保ちやすくもあり、反対に思い入れが強く、やっているだけで楽しそうな人をうらやましく感じることもあります。
思い入れの強さがプラスに転じると、目的の目線がどんどん上がって成長していきます。
思い入れの強さが空回りすると、目的と手段とが入れ替わって、「がんばったから満足」「やれたからオッケー」みたいな、結果にも実績にもコミットできない人になります。
思い入れが強くて、根っからで、一生を捧げられる人が、オリジナルな体系をつくればいい。
そんなふうに思っていました。
「わたしが一流になりたいのは、この世界じゃない」と。
その思いが急に、自分に対する大きな制限であることに気づいたのです。
人生の時間配分として、今やっていることを制限して考えるなんて、えらくもったいない。
思い入れも薄いし、根っからでもないし、一生を捧げる気もないけど、これだけのギフトとして、層を読む力、遠隔の体感、波動を言葉にする力を持っているなら、それを徹底的に磨いたって許されるんじゃないか?
だったら、人々ののエンパワメントに対して施術できる技術をもっとつけていこう。
なんでエンパワメント(力を引き出す)方向に行きたいかというとね。
ボディートークをやっていると、わたしたちはあまりに「癒すこと」に重きを置きすぎているとよく感じるのです。
自分の人生がどうで、どう分離してきて、どこに不調和が生じて、それを癒せたらどんなにか素晴らしいだろうと。
そんなことばかりに夢中になっている。
治癒に時間がかかることもあるし、夢が叶うのに遠回りすることもあります。
でも、必ずしも、分離や罪悪感、恐怖などへのアプローチばかりではなく、健全な個別化、創造、喜びにもっとサポートの技術があってもいいと思うのです。
ボディートークもセラピーである以上、「不調」の調律が入り口にあります。
「不調」の調律がなされ、自らを偽る仮面が外れ、本来の輝きが出てくるというプロセス。
オイリュトミーはなんだろうなあ。
「調和」に働きかけることで、調和や不調和をもたらす力の流れそのものを知るような側面があります。
力の流れを知ると、能動的に「虚構」をつくりだすことができます。
わたしが「セラピー」というものに心底ひかれることがない理由は、「虚構」がない天国が退屈そうだから。
ダンテの『神曲』だって、地獄篇のほうが断然おもしろいもの。
自分の人生は、たったひとつのサビアン(星のお告げ)。
残りの359は、「他者の人生」という名のわたし。
「心」をまとう、たったひとつの人生すら「他者の人生」のように育ててみる。
360のサビアンが、同心円の「わたし」になる。
そんなふうに「虚構」を生きてみよう。