超感覚世界を感じるのに、努力やトレーニングは必要か
- 2021.04.05
- ボディ- マインド - スピリット
通常、わたしたちは明るい感覚世界に生きています。
明るい昼間に、空の星は見えず、ホタルの光も見えません。
そこに星があるのか、ホタルがいるのかというと、見えようが見えまいが、星は巡り、ホタルも一年を通じて命を営みながら光を放っています。
人間同士のおしゃべりの間にも、魂はつねに何かを語りかけてきています。脳内思考の割れ目から、直感やインスピレーションが届く時もあります。
微細な光や、内側でささやく声の気配に集中しようとすると、明るい感覚世界で見ていた風景や人間の営みの方が「鏡の世界」で、かすかな存在の気配のほうが実体であり、鏡の世界を動かしているエネルギーであることに気づきます。
いつもそこにあったのに、気づかずにいたもの。
春や初夏の芽吹きもそうですよね。凍てつく冬のうちに用意されていたのに、咲いてはじめて気づく。
冬の間に「まだ咲いてないんだけど」「花なんてないんだけど」と思う視点と、冬の間に次の命を育てている気配や、幹の中のあたたかさを感じる視点と、今自分がどちらに重きを置いているのか、つまり「わたしは何を見ているのか」に気づくことが自己認識の出発だなあと思うのです。
いつもそこにあるのに、ふだんは意識しないもの。
呼吸や瞬き、気道と食道の切り替えなども、当たり前すぎて、不具合でもない限り意識を向けません。
体は、意識してほしいとき、何らかの応答やメッセージを送ってきます。
それは不具合や痛みかもしれないし、満たされた心地よさかもしれません。
わたしたちは不具合や欲求を意識すると「どうやったらよくなるか」「どうやったら手に入るか」を知りたがります。その手段によって現実が変わることを夢見て。
「どうやったら」の手段にフォーカスしている時、わたしたちは「結果」を期待しています。
その手段は、肉体的・物質的に何らかの結果をもたらすでしょうが、自己変容には何の変化も起きていません。
いつもと同じ視点で、自分の信じたいもの(成功する/失敗する)を世界に反映して、喜んだり、がっかりしたりします。肉体的にもたらされた変化は、恒常性維持機能によって元に戻ろうとします。
物質的にもたらされた変化は、物質法則に従います。
「どうやったらよくなるか」「どうやったら手に入るか」だけではない、もう一つの、命の視点。
いつもそこにあるのに、ふだんは意識しないもの。その微細な気配にフォーカスしている時、わたしたちの体はエネルギー体として共鳴しはじめます。
それは、その場にいるのにその場にいないような、誰もが感じたことのある不確かで不思議な感覚です。
意識する視点が変わると、豊かにあふれる微細な気配を通して、鏡の世界(体や心や風景)を眺めはじめます。
結果世界ではなく、可能世界を見るようになります。この時、心の表象(水鏡)は内面と外面の区別がなくなり、自己を宇宙の全体存在だと体験しはじめます。
可能世界では、制限や自分の都合や過去からの影響が弱まり、自己を含めたあらゆる存在が、自らの可能性を発信しています。
ここまでは視点を変えるだけなので、実は何の努力もトレーニングも要らない、とつねづね感じています。ただ、「私」の気配を静かにして(無我)、聞きたいものに耳を済ませるだけ。
可能世界に立って「結果がすべて」と言い切る、可能性をこの世に下ろしきるには、何かに夢中になり努力を傾けるトレー二ング(没頭)が必要だと思います。
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