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コンテンツ介入と非介入の狭間で

コンテンツ介入と非介入の狭間で

仕事がら、意識と現実の違いについて、お話しすることが多々あります。

一般には脚本家(意識)とスクリーン(現実)の関係で説明することが多いです。
システム屋さんがセッションにいらっしゃる時は、クラス(意識)とインスタンス(実体)で説明すると、すぐにポン!と膝を打って納得されることが多いです。

プログラミングについては、わたしはせいぜいWebスクリプトをちょろちょろと書くことくらいしかできませんが、その言語性や文法法則は理解しています。その言語的性質は、脳内の処理の様子を語るのにとても使いやすい。

クラスとインスタンスは、簡単にいえば、レシピと、実際に出来上がった料理との関係のようなもの。
タイ焼きの型と焼きたてのタイ焼きのようにシンプルなものもあれば、スープレシピをいろんな料理のベースに使い、またそれが多彩なメニューを生むような入れ子構造まであります。

わたしが仕事にしていることは、レシピを教えることでも、焼き方やアレンジの技法を教えることでもなく、脚本を書く者(意識)と書かれた物(体)の関係自体を調整することです。書かれた物(体)には、脳や心の働き、行動、能力や環境との関わりにつながっています。意識と心はイコールではく、クラスとインスタンスの関係性にあります。

ものごとを外に向けたい時は、外界の対象物(オブジェクト)を指向します。
インスタンスは実体と書きましたが、わたしたちが体験する実態は、インスタンスそのものではなく、ちょっとずつ変数の異なる日々の料理です。
わたしたちが体験できる実態は、コンテンツと呼ぶのが適当でしょう。


レシピとインスタンスとコンテンツの違いは、かわいいスイーツを作るレシピがあり、かわいい出来上がり参考写真があったとします。それに心ひかれて作ってみたら、ドロドロのお化けのような何かができた、という感じです。

わたしたちはつい、何かをはじめるとき、レシピを頭に入れようとします。
そうすれば失敗せずに済むかと思い込んで。

けれど、わたしたちがスクリーンの中でできることは、変数の調整なのです。
レシピそのものの問題ではなく、変数の調整によって、いくらでもかわいいスイーツを作ることができます。
レシピでいうと、変数に当たるのは、素材の状態、分量、火加減、力加減、環境温度で、素材の状態に応じて力加減と火加減を変えるのが技量にあたります。

技量(=変数の調整)とレシピ(理念、設計図、意図)は、切り分けておかなければいけません。
技量ではなく、クラスとインスタンスの関係を変えたかったら、スクリーンから出て、意識の世界へ入るしかありません。


意識の世界へ直接入るには、眠るか死ぬかしかないので、間接的・誘導的に入る方法をお伝えしています。
意識の世界へ入る非言語での方法は、呼吸を使って共鳴を起こします。
言語的には誘導瞑想の方法があります。

ご本人がひとりで意識の世界へ入る方法は、いつもセッションの中で早口で伝えるか、クローズドな場でしかやっていないので、近々ちゃんとしたメニューにしてご提供しようと思っています。

さらに、設計図をどう書くかをお伝えしています。
どう書くかというより、意識の世界で何を受け取るか、受け取れないとしたら何が邪魔をしているのか、何が曇っているのかを見て、取り除いていきます。これがセッションの主体で、変化に現れてくるインスタンスをクライアントさんと共有します。共有しようとつとめています。

コンテンツ非介入の例

日々の生活が、ストレスや家族への不満でいっぱいな人がいるとします。仮定ではなく、セッション実例ですが、ぼかして書きます。
おそらくその人は、ストレス解消法や不満のはけ口、憂さ晴らしを探し、ご自身の体の不調や周辺環境が改善されていくのを望むでしょう。
お金を払ってセッションに訪れるきっかけは、そのようなものが多いです。

クライアントさんが「何にお金を払おうとしているのか」は、実に興味深いところです。問題解決にお金を使おうとするとき、その方は問題解決に価値がある、と感じています。
スッキリしたい、クリアになりたい、という欲求にお金を使おうとするとき、その方は心身の明瞭さに価値がある、と感じています。

とくに初回にセッションに訪れる9割以上は、不調、不満、欠乏感、ネガティブな感情、ストレス、諸々の苦しみに目を向けて、なんとかしよう、なんとかして欲しいと考えています。

同じ方向に目を向けて、問題解決法を指導したり、変数の調整をアドバイスしたり、治療したりしようとするのが、コンテンツ介入です。

このコンテンツ介入というのがやっかいで、さまざまなコンテンツの世界には、その道のプロフェッショナルがいらっしゃるので、わたしが介入してもろくなことにはなりません。

求められるがままに介入すると、最初はよくなったかのように見えます。けれど、その後悪化します。
余計な介入をすることで、力を奪ってしまったからです。わたしも、わたし以外の仕事をすることで、力が弱まります。

日々の生活が、ストレスや家族への不満でいっぱいな人に、同じ方向に目を向けて、問題解決法を指導したり、変数の調整をアドバイスしたり、治療したりしない、つまりコンテンツ介入しないでセッションするとどうなるでしょうか。

その人は、いつの間にかパートナーや環境の不平を言わなくなっています。言わなくなっていることに気づかないままのこともあります。訴えていた体の不調も忘れています。

ご本人が気づいていないことを「良くなったよ」指摘しても反発されることが多いので、何も言わなくなりました。ご本人が気づかないうちは何度も繰り返すし、または別の理由を持ってきて不平不満にしがみつく場合もあります。
だから、気づきを増やす感覚練習のほうに、セッションの重きを置くようになりました。

コンテンツ介入の例

わたしたちはさまざまなサービスをアウトソーシングして暮らしています。
牛や鶏も飼わず農業もしていないなら、食料調達は100%アウトソーシングでしょう。公共インフラももちろん。自分には難しいと感じる会計や経営指南をコンサルティングしてもらうのも、アウトソーシングのひとつです。

アウトソーシングはすべてコンテンツ介入だとわたしは思っています。例外はあるかしら?
コンテンツ介入は、当人が人生のすべての資源を実現する力を分散的に請け負って、分業を実現します。何かを専門で引き受ける職業が生まれるのです。

コンテンツ介入が、当人の力を奪うのか、分散することで別の力を発揮できるようにするのかは、とても大切な見極めポイント。

とくにセラピー業界は、明に暗に、当人の力を簒奪してしまうようなことが起きているように感じています。

見極めるポイントは、その人が強まり、調和の波が復調するかどうか

今回、迷った挙句にはじめて、意図的にコンテンツ介入したケースが、「すずむぅ」こと、いしいひさえさんの起業支援プログラム

わたしたちのマインドには、「やりたいのにできない」という抵抗や回避のパターンがあります。

0か100か、うまくいくかいかないかの二極思考のパターンに陥ると、最初の1歩を踏み出すのが困難になります。
踏み出しても、最初の1なんて完璧なはずはないので、がっかりして逃げ帰ります。
「思ったようにできなかった自分」を受け入れがたく、またそのジャッジに自分を縛り付けて、それらの苦痛から逃れるため「回避」を選択します。

回避のパターンの時、体は弛緩、低調、外部からの刺激に弱くなり、ますます閉じこもろうとします。こんな時に、「回避」そのものにフォーカスすると、逆効果になります。

「その人が強まり、調和の波が復調するかどうか」。
これだけを念頭に、最初の10歩めくらいまでのコンテンツ介入をやる予定なのが、すずむぅさんへの起業支援プログラムです。
すずむぅさんは、起業というご本人の具体的なコンテンツを通して、0か100かの二極思考から抜け出し、踏み出した一歩は、確実に周囲の嬉しい反応を呼び起こしています。

起業支援といっても、経営的なことではなく、「わたしは何者かである」というアイデンティティを意識的にまとうことが最も重要なので「タロット鑑定師&ボディートーク施術士」であるということに必要な学びや、パターンの書き換えがプログラムの主な内容です。

調和の波が広がっていきますように。
どうぞどうぞ、応援してください。

0か100かの二極思考は、わたしも彼女も通ってきた道で、この回避パターンは謙虚に事実に向かえないときほど、容易に起こりえます。「がっかり」した感情は、もう回避パターンに入っているといってもいいくらい。

わたしは、すずむぅさんのモニターセッションにお申し込みくださった友人に、こんなふうに書きました。

なんかさ、久恵さんの静けさが強みになったら、ほんとの強さだっておもうわ。人が攻撃や防御しなくてい、心身が楽になるような静かな強さ。

これは、ほんとにそう思います。
こういう強さが、これからのオープンな世界に大切になっていく。

すずむぅさんもnoteを書き始めました。
わたしが細胞組織について、いくつかのお題を先に提示したところ、

のりさんにご提案いただいたシリーズは、ささっと手をつけられるような気がしなかったので、このような内容にしました。

といって、自分で考えたお題の下書きを見せてくれました。

前のすずむぅさんなら、「ささっとできなければいけない」という信念に負けて、0である回避を選んでいたでしょう。

今や、自分の力で、1を踏み出し、2を綴っていく。

最初は完璧である必要は何もない。
そして、そういう状態こそ、ボディートークではいい結果を出すことが多々あります。謙虚な観察ができるから。自己否定や回避の被害者意識こそが最も傲慢である、とわたしは思っています。

コンテンツ介入と非介入の狭間で。

これはわたし自身がバランスをとるべきもので、思考の整理のためにこの記事を書きました。
書いているうちに、すずむぅさんは、きっと大丈夫だなあ、強さを発揮するなあという確信が強まりました。

でもやっぱり、コンテンツ介入は、最小限にしたいね。