究極の引き算で、空になるカラダ - Holistic-web

宇宙は、カラダを必要としている

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ボディートークを仕事としてはじめるにあたって、一番やっかいだったこと。

それは、今だから言うけど、「バランス」や「ハーモニー」という気持ちのわるい言葉たちと、どう折り合いをつければいいのか、という問題だった。

『ハーモニー』という小説がある。著者は伊藤計劃。
健康至上主義となった世界で、自分のカラダの恒常的健康監視システムを政府のコンピュータに委ねた人間たちを描いている。
主人公は、その社会で傷つき、魂を明け渡すことをあらがう少女たち。

体内バランスは、つねに環境との循環的調和を求める。
だから、健康至上主義の社会は、他者との調和が必ずセットとなっている。
「ハーモニー」は、そんな世界だ。

なぜ気持ち悪いのかって?

それは、バランスもハーモニーも、内側からしか生まれないものなのに、健康至上主義の世界では外部から与えられているからだ。
外部から与えられた他者との調和を、「見せかけの優しさ」と伊藤計劃は呼んだ。

バランスやハーモニーは、言葉として取り出した瞬間にすら、役目を終えた抜け殻のように内実を失う。
「カラダの恒常的健康監視システム」は、おもに間脳、中脳、あと心臓にもセンサーがあり、もっといえばすべての細胞に自らのバランス感覚・調和感覚がある。

「悪いところを探して治してもらう」

わたしたちをすっかり飼い慣らしたかに見えるこの医療観は、体の外で数値化されたバイオテクノロジーとモニタリングシステムを、どこまでも加速させる。

なーんて、えらそうに書いているけれど、わたしはこの『ハーモニー』という小説、途中までしか読んでいない。

伊藤計劃さんは、読んだ瞬間に目が眩むほどの才能だと感じて、最近ではデビューしたての佐々木中さんと伊藤計劃さんにしか、そういうのを感じたことはなかった。

それでも、最後まで読めない。

なぜなら、バランスやハーモニーは、「意識」に帰着するテーマだからだ。

自然科学は意識を直接には扱えない。外側から見えないから。

小説と哲学は、意識を直接扱える。
しかし、言葉はどこまでいっても、意識を内側から扱うことができない。

わたしはこれをやろうとした。
言葉でどこまで意識を追えるか、カラダを切り離し、言葉の渦に溺れに溺れて、沈没しかかった。

だから、読めない。

カラダだけが、意識を内側から扱うことができる。
それが、今たどりついた岸辺。

皮膚がどれほど優秀で雄弁な科学者であるか。

骨がどれほど寡黙で、勤勉な哲学者であるか。

血液がどれほどの力強さで、あなたの命を価値づける言葉をもっているか。

カラダを癒すのではない。

カラダがバランスをとってもらいたがっているのでもない。

カラダがハーモニーを失っているわけでもない。

癒しは、カラダという舞台で起こるだけだ。

バランスが、カラダに恋しているのだ。カラダが彼らのブランコだから。

ハーモニーが、カラダを求めているのだ。カラダが彼らの楽器だから。

つまりは、サーカスのようなもの。

舞台の上に、ブランコが下がり、ミュージックが始まる。

宇宙は、その幕開けにカラダを必要とした。

長い、長い時間をかけて、サーカスの舞台が観えるよう、「眼」をつくった。

喜びをつくった。悲しみをつくった。ピエロをおいた。

すべては劇中のできごと。