宇宙は、カラダを必要としている
- 2018.01.18
- セッション
ボディートークを仕事としてはじめるにあたって、一番やっかいだったこと。
それは、今だから言うけど、「バランス」や「ハーモニー」という気持ちのわるい言葉たちと、どう折り合いをつければいいのか、という問題だった。
『ハーモニー』という小説がある。著者は伊藤計劃。
健康至上主義となった世界で、自分のカラダの恒常的健康監視システムを政府のコンピュータに委ねた人間たちを描いている。
主人公は、その社会で傷つき、魂を明け渡すことをあらがう少女たち。
体内バランスは、つねに環境との循環的調和を求める。
だから、健康至上主義の社会は、他者との調和が必ずセットとなっている。
「ハーモニー」は、そんな世界だ。
なぜ気持ち悪いのかって?
それは、バランスもハーモニーも、内側からしか生まれないものなのに、健康至上主義の世界では外部から与えられているからだ。
外部から与えられた他者との調和を、「見せかけの優しさ」と伊藤計劃は呼んだ。
バランスやハーモニーは、言葉として取り出した瞬間にすら、役目を終えた抜け殻のように内実を失う。
「カラダの恒常的健康監視システム」は、おもに間脳、中脳、あと心臓にもセンサーがあり、もっといえばすべての細胞に自らのバランス感覚・調和感覚がある。
「悪いところを探して治してもらう」
わたしたちをすっかり飼い慣らしたかに見えるこの医療観は、体の外で数値化されたバイオテクノロジーとモニタリングシステムを、どこまでも加速させる。
なーんて、えらそうに書いているけれど、わたしはこの『ハーモニー』という小説、途中までしか読んでいない。
伊藤計劃さんは、読んだ瞬間に目が眩むほどの才能だと感じて、最近ではデビューしたての佐々木中さんと伊藤計劃さんにしか、そういうのを感じたことはなかった。
それでも、最後まで読めない。
なぜなら、バランスやハーモニーは、「意識」に帰着するテーマだからだ。
自然科学は意識を直接には扱えない。外側から見えないから。
小説と哲学は、意識を直接扱える。
しかし、言葉はどこまでいっても、意識を内側から扱うことができない。
わたしはこれをやろうとした。
言葉でどこまで意識を追えるか、カラダを切り離し、言葉の渦に溺れに溺れて、沈没しかかった。
だから、読めない。
カラダだけが、意識を内側から扱うことができる。
それが、今たどりついた岸辺。
皮膚がどれほど優秀で雄弁な科学者であるか。
骨がどれほど寡黙で、勤勉な哲学者であるか。
血液がどれほどの力強さで、あなたの命を価値づける言葉をもっているか。
カラダを癒すのではない。
カラダがバランスをとってもらいたがっているのでもない。
カラダがハーモニーを失っているわけでもない。
癒しは、カラダという舞台で起こるだけだ。
バランスが、カラダに恋しているのだ。カラダが彼らのブランコだから。
ハーモニーが、カラダを求めているのだ。カラダが彼らの楽器だから。
つまりは、サーカスのようなもの。
舞台の上に、ブランコが下がり、ミュージックが始まる。
宇宙は、その幕開けにカラダを必要とした。
長い、長い時間をかけて、サーカスの舞台が観えるよう、「眼」をつくった。
喜びをつくった。悲しみをつくった。ピエロをおいた。
すべては劇中のできごと。
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