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舞は声を根と為す

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喉チャクラのことを考えていたら、世阿弥の『花鏡』にある「舞声為根(まひはこゑをねとなす)」という言葉に出会って、しびれた。

舞は声を根と為す。
一般的には「声」を「音」(謡または曲)ととらえて、その一体性を述べているのかもしれないが、オイリュトミーでは、もっと深く、生命力を生み出す根っことしての「声」、つまり振動や響きに立ちかえることに重きを置いているように感じる。

感情のシンプルな働きは、面の照らし(喜び)と曇らし(悲しみ)の動きとなる。
この時に動くのはおもに第一頸椎の小さな反らしと頷きで、声帯のある喉頭よりもずっと上、鼻と喉の間の上咽頭の後ろに骨がある。
ここは鼻呼吸の通り道であり、心の働きが真っ先に体に現れる根っこの場所なのだと思う。

こうした奥義を体得するには、その秘技をまとめている世阿弥に学べばいいのかというと、ちょっと違うような気もするのだ。
世阿弥が生きた時代は、応仁の乱から信長が天下をめざす戦国時代の直前にあたり、世阿弥の技法は今に受け継がれている。

鎌田東二の『世阿弥』を読むと、この時代から今に伝わる身体変容技法は、能動的な性と暴力性をもつ男性がこれを統御し、内的感覚を発達させる技術だと書いてある。
性と暴力を自制的にコントロールできたものが、より高い内的感覚や戦闘技術、リーダーシップを持つことができ、その技術は瞑想修行、武道、猿楽に伝わっていると。

じゃあ女性はどうなのかというと、女性性は性と暴力性の本体、という印象がわたしにはある。
自制的にコントロールする対象のようなものではなく、戦いの世の舞台そのものであるような。

エジプト時代、体が八つ裂きにされるイニシエーションを経たのは男性神オシリスで、肉体認識の道を人間が歩もうする出発点になった。
戦国時代から今にかけて、世界は女性性の舞台ごと裂けてゆく形相をなす。

わたし自身の体感として、この、世界ごと空も大地も割れて肉体が裂けてゆく感覚は、すべてをしのぐ生々しさをともなって、子どものころからずっと今に続いている。
ボディートークのセッションで出会っているのは、ひとりひとり違えど、実は深いところではこうした呻きの波動なのだ。

では、今から未来にかけてはどうなるのだろう。

ボディートークはつねに、直感(女性的エネルギー)と知性(男性的エネルギー)の健全な分離と統合のプロセスを手伝う。

人智学のルドルフ・シュタイナーは、将来、人間の生殖器官は喉になる、と述べている。

舞は声を根と為す。

吸気と呼気が出会い、命を育むところ。

感情の喜びと悲しみが出会い、心を織り成すところ。

父声と母声が出会い、意味のある響きを成すところ。

これらの波は、二つの分離した何かなのではなく、ひとつの動きの陰と陽の側面なのだ。

波は力を得て渦をなし、巻かれ、また広がり、もつれあう。

外的な世界の被害者ヅラをすることから離れ、内的な世界のリアリティを支え続けようとすると、心の中は自然と、あらゆる天候の景色を映す大空の循環に似てくる。

良い天気だ。
家に缶詰だけれど。

心を裁かず、心にサバ缶。
心を裁かず、心にサバ缶。