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オイリュトミーとボディートークをつなぐもの

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オイリュトミー(Eurythmy)は神秘学者のルドルフ・シュタイナーが提唱した運動芸術です。

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ボディートーク(BodyTalk)はDr. ジョン・ヴェルトハイムが創設したヘルスケアシステムです。

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まったく別モノなので、わたしごときが統合する必要はまったくなく、むしろ理論をまぜこんでしまうのは、よろしくないことのほうが多いでしょう。

でも、一日のうちで二つをやっていると、何かしら自分の中でつなぐものがないと、苦しくなってくることがあります。

オイリュトミーとボディートークの、共通の、しかも根本的な問いがひとつあります。

物質を物質たらしめているのは何か。

ということ。

その力を引き出し、表現し、能動的に働きかけるにはどんな方法があるのか。

働きかけている対象や方法はもちろん違いますし、モデリングもそれぞれ独自です。
ただ、バックボーンとなっている哲学は共通していることもたくさんあります。

知性でとらえようとすると、共通点や相違点はいくらでもピックアップできるのですが、日々の実践でいうと、そういうのはあんまり重要ではないんですね。

日常の行為の連続性、つながっている感覚は、もっと体感的なもの。

体感でいうと、オイリュトミーとボディートークをつなぐものは、五行です。

ボディートークのなかでは生体力学のテクニックとして扱われています。
ベースは東洋医学ですね。日本人にとっても馴染みやすい分野。

オイリュトミーでは、音程感覚(インターヴァル)です。

五行もインターヴァルも、簡単にいうと波長の組み合わせで、たとえていうなら、「波間」という言葉がぴったりかもしれません。

音であれば、440ヘルツあたりを鳴らして、これが「A」だよ、といえます。
でも、AからCに移行したときに生まれるちょっと物悲しい感じ、同時に鳴らしたときに感じる落ち着きのようなものは、感覚に属するもので、表現に委託しないかぎり、物質的に取り出すことはできません。

波をコップでくみ出してきても、その瞬間に波はただのコップの水になり、波を波立たせていた力は伝わってきません。

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季節の移り変わり、一日の流れ、音の調べ、人生の歩み。
それらはみな、何かの力によって動いている波長の流れといえます。

人生の歩みも、ほんとうは切り出せないものなのでしょう。
「これが幸せ」「これを達成した」というのは、勝手な基準に照らしているだけで、見方を変えればなんでも塞翁が馬ですからね。

波間にいて、高揚し、静かな山と一瞬の静止をへて下降し、一瞬の死のような闇をくぐって、また浮上する。

今のところ、この波間感覚が好きで、ボディートークとオイリュトミーをやっています。

自分の内側では心地良い感覚だけあればよいのですが、外の人さまに働きかけるときは、何かの説明なり目的なり、その人にとって有益である何かが必要になるでしょう。

シンプルな言い方をすると、ボディートークとオイリュトミーの波間感覚は、人生の誤解から目覚めさせてくれる感じがします。

人生の誤解とは、脳の自動プログラムにあやつられているだけなのに、「これが人生」と勘違いして生きることです。

わたしたちの多くは、あやつられ方が不自由になると突然、テレビの中の役者がテレビを見ている人に向かって叫ぶような行動をします。
与えられたシナリオの役に不満で、素に戻って役を変えたがっている役者のように。

「おれはもっと幸せになりたい」
「病気になった、どうしよう」
「もう消えてしまいたい」と。

どの言葉も、人生への無力感から発せられているように聞こえます。
おそらくその状況は本当につらいのかもしれませんが、その人の魂(テレビを見てる人)からすると、その言葉はナンセンスなものに聞こえるでしょう。
テレビの中の人は、見ている人がスイッチを切るまで、消えようがありませんからね。

書店にいくと、この不自由さから脱するための啓発本がたくさんでています。
たくさんあるということは、どれもうまくいかない、ということかもしれません。

高揚だけしても、次は落ちます。
物質だけ見ていたら、極端な高揚と落下は、ほんとうに苦しいことです。

波間感覚は、波が海とともにあるような感覚です。
激しさも穏やかさも内包して。

写真は、地元の海。

大いなる海と転生する小さな魂たちが、光の中に。

* * *

今日は生体力学の勉強中です。
机に向かうと、ブログを書く気分になるんですな(逃避ではないのか?)

生体力学は、概念や元型を駆使する意識の原理や心身の大宇宙よりずっと好きです。

なぜなら、生体力学で扱う体は、隠しようがないから。

わたしたちはまだ、概念や元型を心のなかに隠せると思い込んでいます。

思い込んでいるだけなんですが、今の社会はまだ、心が隠せるという不文律のもとに成り立っています。

もうすぐ、何も隠せない時代が訪れます。
そのときに「脳の自動あやつり人形」で生きていくのは、おそらくとても困難なことになるでしょう。

何も隠せないということは、「それが人生」だと誤解したまま生きることがどれだけ惨めか、目をそむけることすらできないのですから。