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心不全の10年後、そして最近のケトジェニック食のその後

心不全の10年後、そして最近のケトジェニック食のその後

体組成計で見る体の変化

わたしの体組成、体重だの体脂肪だの筋肉量だの見たい人はいないだろうけど、嬉しいことがあったから検査票をさらすぜ!

今日は、西武池袋のカラダステーションへ、InBodyを使った体組成の測定に行ってきた。
我が家の家庭用体組成計(オムロン)もかなり精密だけど、InBodyは年齢の補正が入らないので、業務用で一回ちゃんと測ってみたかったんだよね。

大手スポーツジム、メガロス三鷹にも同じ同じ業務用InBodyが導入されてて測ったことはあるのだけど、テレビのあるサウナに耐えられず、3ヶ月もしないでとっとと退会しちゃった。
今は、高井戸のナフウェルネスクラブ会員で、そこでInBody入れてくれないかなー。

そんなことを思いつつ、ワクワクとカラダステーションに行ったら、なんと予約は来週だった(汗)
がっかりしてたら、ちょうどその時間の予約にキャンセルが出て、測ってくれることになった。来週も来て、検査票からの運動アドバイスももらえることになった。
ラッキーすぎる!!


検査票の結果は、だいたいほぼ適正、標準。
BMIからの適正体重は、わたしの身長だと56.6kgと出る。
InBodyの理想は、脂肪量をあと3.6kg落として54.9kgにしてね、というもの。

今のペースでいけば、プラトー(停滞期)を含めて3ヶ月でいけそう。
目指しているのは、今の骨格筋量を3kgあげての体脂肪率18%。InBody測定で骨格筋量25.7kg、体脂肪量10kgのアスリートスタイルが目標だ。

まだ伸びしろだらけだし、筋肉3kgつけて脂肪6kg落とすの、達成できる感しかしない。遺伝子タイプも検査したから、自分にあった客観的な数値目安はだいたいわかる。

そうやってモニタリングされた数値が欲しいわけではなく。
食事や運動の数値を取っておくと、摂取カロリーと消費カロリーという、個々に違いがありすぎるものが自分の中で正確にわかり、どのくらいを「プラーナ」から、どのくらいを「食」からとっているのか、もわかるようになる。

真の目標は、エネルギーを食べて生きるプラーナ食と、植物や動物の命をいただく物質食と、自在に行き来することだ。

目に見えないプラーナと、目の前の肉の一切れは、まったく等価であることを体験したいがために。

10年前のわたし

この道が、順風満帆だったわけではない。
昨日、ちょうど10年前の日記を見つけた。
その頃は、心不全からの回復期で、体重が47kg、体力なし、どうやって食を管理しながら体を元に戻していこうか、仕事はどうしようかといったあれこれが記されていた。

治療のために利尿剤で一気に落とした体重なので、あっという間に倍以上のリバウンドで、47kg→25kg増。
おそらく、インスリンをバンバン出してのホメオスタシスの反動的な取り込みなので、増えた分はほぼ脂肪と水!
太ったことも問題だったけど、気分も体調も異常に重だるく、80歳くらいになった感覚だったなあ。このままじゃ何もできなくなる、お荷物みたいな人になるって焦った。

「40歳で死ぬ」と思って、その通りになりかかった。
思いは現実をつくる、と思った。
でも、完全には死ななかったから、予言は信じなくていい、とも思った。

急性心不全の治療に、現代医療と看護はとても優秀で、わたしを助けてくれたけど、ホメオスタシスの爆発的な反動からは、助けてくれなかった。

ボディートークに出会ったのは、もう一度生きようとしつつ、根本的なところはおそらく何も解決しておらず、重だるい体を抱えて途方に暮れていた頃だった。

激増した体重は徐々に落ち着いていったけれど、残された脂肪組織は炎症を起こし、早くきた閉経も影響してホルモンバランスは崩れ、インスリン耐性も血管も腸も、ダメージは大きかった。

その後、自分でもボディートークを学んで施術者となった。
つらいことばかりでもなく、受け取ったギフトも多かった。

生死の境目を通ってきた経験は、わたしに生命への洞察力を与えてくれた。
「見えない世界を見て見ぬ振りするこの世」は、これまでわたしを苦しめる一方だったが、見えない世界が今度は味方になった。

もう一度社会に出て人とかかかわり、施術者として生計を支えつつ、オイリュトミーを専門的に学ぶという夢は、思いを現実化する多くの方法を教えてくれた。

わたしの内的世界の構築は、ほとんどが内的世界そのものから教えられ、さまざまなワークや術式も、内的世界からおろされてくる。

セラピスト業界に入り、お金をかけて、さまざまななボディーワークやトレーニングも受けた。

ボディーワークもトレーニングも、一般的なマッサージや運動とは違う。
脳とフィジカルとの関係性を再構築する、自分の体の認知を変えるのが、ボディーワークであり、トレーニングであり、ボディートークはそれを情報ネットワークとしてモデリングし、オイリュトミーはさらに霊・魂・体のつながりや宇宙法則を認識して、心身を通して現れくる自己の認識を、空間的な運動力に変えていく。

どれも大変に抽象度の高いものだ。

平日は9時から13時までオイリュトミーの学校で汗をかき、午後は施術をしながら、ロルフィングも、ジャイロトニックも、パーソナルトレーニグも通い、PNFも筋膜リリースもかじった。

しかし、フィジカルを通して立ち現れる以上、そこには肉体的射程が生じる。
死者の国をかすめてきたわたしは、ボディーワーカーが提供してくれるメソッドより、ちょっとだけ規格外だった。

自分の提供するメソッドが当てはまるスコープ(範囲)を、いったいどのくらいの施術者が理解しているだろう。
もちろん、人さまのボディーワークを受ける側のわたしはもっと理解できず、3年ほど前は正直なところ、がんばっても体は壊れていくほうに進んでいた。

今では、自分のメソッドのスコープを正確に伝えることこそがマーケティングだと明確に言い切ることができる。
だからこそ、わたしは特定のメソッドにこだわることも教えることもしたくない。個々の人の変容をもたらす、その人独自のスコープや道を提示することの方が興味がある。

とりかかったのは、自分自身のスコープを正確につかむことだ。自分が施術者としてそれをつかみ切っていないことは、ある人から、ある痛みとともに教えてもらった。未熟さを認めるのは恐ろしいことだが、わたしはエゴが見栄をはりたがるより、はるかに未熟だ。

ずっと運動したりチャレンジしたりしているから、運動好きなのかと思われることも多いが、マインドの根っこには、運動嫌いがある。

何より体を憎んでいる。体を憎んで、心を閉じて、硬く固めて過ごしてきたのだ。

そこに立ち向かわないかぎり、何も変わらない。

動きたくない、自分。

その奥に、動くことを本質とする、人間としての自己。

この自分と奥の自己をつなぎ直す。

つなぎの役割には、呼吸、食、動き、感覚、知識の更新、認知の変化、いろんなものがある。

何年もかけて試行錯誤し、自分で自分の真の姿が見えてきたのが、この数カ月だ。
食の変化に役立ってくれたのが、ケトジェニック食だった。
ケトジェニック食は、適度なタンパク質、高脂質、極端な低糖質で、ケトン体をメインエネルギー源とするもの。
その顛末は、前のnote記事「 甘さ」の味覚障害が教えてくれたことに書いた。

次は筋肉だ!・・・と簡単にはいかなかった。

一定の効果が見えて、内臓脂肪レベルがぐっと落ちたので、今度は筋肉をつけようと、筋トレのお兄さんお姉さんが食べているような食事に変えた。

筋トレ族は、高タンパク・かなりの低脂質、筋肉に必要な糖質をとる。
筋肉を増やす増量期と、除脂肪する減量期で、食べるものが変わる。

高い代謝を維持し、エネルギーが切れて糖新生(筋肉が減る)が起きないよう、食事内容を朝から晩まで細かく分けて食べる。

わたしにはこれがそもそも難しかった。
一日中、筋肉のために食べることを考えているなんて!!

何より、いったんケトン体で過ごすクリアさを味わうと、もう糖質生活には戻れなくなった。

食べると、すごくぼんやりするように感じる。
玄米は相変わらずうまく消化できず、吸収もできなくて、糖新生が進んだ。

ケトジェニック食にもデメリットがあるので、いったい何がいいのやら、また試行錯誤の日々になった。

糖質を摂らないと、まったく体脂肪が減らない。
結果、米はほぼなしで、フルグラやフレークにしたもち麦、オートミールを少量とる。
野菜は一日400g、穀類以外の糖質もある程度とると、腸の状態も良く、筋トレの効果がでることがわかった。肉は手作りの鶏ハムが多い。

そんな日々を経て臨んだのが、今日の西武池袋カラダステーションでのInBody測定だったのだ。

だいたい全部、標準。ちょいむくみ、あと3.6kgの除脂肪。

その「標準」には、この10年の深い思いがある。
川を遡って進むようにたどり着いた「標準」だ。

そんな時間かけなくても、すぐに変わるものはたくさんあるよ、と誰かが言うかもしれない。
そういうものは、だいたい学びもしたし、体験もした。
素晴らしいものもあれば、施術者によってピンキリになるものもある。

結論は、自分自身の気づきの時期がこないと、何を提供されても元に戻る、ということだ。

とくに優れた抽象度を与えてくれたのは、ボディートークももちろんその一つだし、ロルフィングからも、パーソナルトレーニングからも、多くの財産を受け取った。
今ならやっと、その身体を見る解像度の高さを理解することができる。

ここから先、わたしの手にした「標準」は、あらゆるものを超えていく力を秘めたスペックとなる。


ずっと専心してきたオイリュトミーが、やっと大好きと言えるようになった。
好きと言えるようになったとたん、わたしの共感や快不快は問題ではなく、いかに言葉そのもの、音楽そのものに共鳴できるかに、すべての関心ごとが移った。
そのようにして、宇宙の霊が、言葉と音楽を介して肉体に下ろされる。

目に見えない響きと、目の前に見えるわたしの肉の一切れは、まったく等価である。
そのようにつながっていくとき、風が吹き、心がふるえるのだ。