震災の日と野狐禅(やこぜん)


7年前は、たしか心不全からの療養中で、戯曲を書いたりヘーゲルを読んだりしていた記憶があります。

体がガイコツのように干からびて痩せ細りました。
痩せ細ったというより、干からびた。
服を着ちゃうとわかんないけど、スルメかエイヒレの干物みたいになる。

療養中はそうとう体調管理や食事に気を付けていたはずなのに、甲状腺をとった影響もあったのか、逆に今度はどんどん体重が増えて、その諸々の解決に、友人からボディートークをすすめられて、あれよあれよと言う間に、今は自分が施術士。ははははは。


いまだに脊椎の制限や生理学的なアンバランスはあるけれど、それを気づきやエネルギーに変えて、自分の変容や人さまのサポートに当てていられるのは、やっぱり施術者の側になったからだと思います。

それでも人並に心が折れるときはあるし、体がうまく使えずに、ダメ出しされてへこむときはある。



週末の施術は、野狐禅(やこぜん)を扱うことが多かったです。

野狐禅は「悟ったとうぬぼれること」という意味ですが、もっともっと広い意味で、わたしたちの日常に影響を与えています。

挫折。劣等感。
反対に慢心。優越感。

未来に夢想ばかりすること。
過去にとらわれすぎること。

そういうときは、自分自身や場の実相が見えなくなります。
現実を忘れてフワフワしたり、「何をやってもダメだ」と全否定したり。

「悟ったら現実を願望どおりにできる」「覚醒したら超能力が得られる」という打算も、容易に野狐禅を招きます。

もちろん野狐禅なんていう一般にはなじみのない言葉ではお伝えしませんが、扱っているのは野狐禅です。
咳や不眠でその症状が出た方がいらっしゃるので、今度、症例紹介させていただきますね。


わたしがとても大きな野狐禅の幻想をみたのは、震災の翌年の冬でした。

もうね、「我は神」ですよ。全チャクラ全開。

危ない人。
そういう人が野放しで都心を歩いちゃうからね。
カルトは紙一重なんだなあ。

「まだ悟ってない」「もう悟った」という段階的なものではなく、魔境に引きずられる感じ。
しかも、まったく無自覚に、天国だと思ったらそこ地獄、みたいな。


わたしが霊的な覚醒にものすごく懐疑的になり、肉体を離れた修行をせず、メソッドのもつ安全性の側にいること、自他の野狐禅を見分けること、スピリチュアルよりも肉体的な自由を志向しているのは、その苦~い経験があるからです。


肉体的な部分では、そこに汗を流してきた人もたくさんいて、例えば子どものころからバレエやっていたり、健康に恵まれていたり、素晴らしい人がたくさんいます。

おそろしいことに、体の動きって隠しようがなくぜんぶ見えちゃう。
当然のごとく比べられるし、遅れたら悪目立ちするし。

落ち込むこと、くやしいことも、めちゃくちゃ多い。
仕事の忙しさにかまけて、そのくやしさに向かい切れない自分に、このところ、うんざりしていたのです。

そういうときに、野狐禅、魔境と出会うんだなあ。


今は、野狐禅や魔境そのものより、それが生理学的、身体的にどう影響するのかのほうに興味があります。
とくに脳にはすごく影響しているから。
脳に関しては、いろいろ独学していますが、9月にパラマコースを受講します。楽しみだなー。

古神道と禅とパラマ。水脈はアジアでつながっている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です