経験値からの「判断(診断)」と、「一期一会(観察)」との使い分け
- 2018.02.14
- セッション

うちにはテレビがないので、芸能人の生き死にも、オリンピックの結果も、なんにも入ってこない。
数少ない例外が、演出家・蜷川幸雄さんの告別式。
たまたまテレビのあるところに居て、どこにいたかは覚えていないが、藤原竜也の読んだ弔辞は強烈なインパクトをもってわたしに刻印づけられ、稽古場の行き帰り、今も毎日のようにその言葉は響いてくる。
『ハムレット』の稽古のときに、蜷川さんが飛ばしたゲキだという。
「もっと苦しめ、泥水に顔をツッコんで、もがいて、苦しんで、本当にどうしようもなくなったときに手を挙げろ。その手を俺が必ず引っ張ってやるから。」
今どきのスピリチュアルは、「苦しむ」を敬遠するのかも。
楽しいことだけ、わくわくすることだけ、軽いことだけ。
わたしはこの言葉のうち、苦しめ、の意味は、わかっていたように思う。
でも、「その手を俺が必ず引っ張ってやる」の意味は、わからなかった。
だから、ちょっとシラけた。助けなんて、いらねえんだよ、と。
勘違いもいいとこ。
「ほんとに苦しいときは助けてやるから」なんて意味は、蜷川さんの言葉には微塵もない。
「師」というものがどれほどの思いで弟子を引き受けるのか。
その覚悟を、わたしはいまだに感じきれていない。
* * *
人が貸してくれた薙刀マンガ、『あさひなぐ』にも、こんな言葉があった。
合宿中の無言行のなかで、師が言う。
喋るな。言葉に出すな。
お前の苦しみは、お前だけのもの。簡単に手放すな。人に分かってもらおうとするな。
こういった言葉が「正しい」とは思わない。
わたしは病気のどうしようない「苦しさ」を知っている。誰が悪いわけでもない苦しさを。
これは、「道」を行く者のための言葉だ。
その苦しみこそが、お前だけのものだ。大切にしなさい。
「道」という舗装されたハイウェイがあるわけでもない。
茶道でも武道でも、その道を「お前だけのもの」としなければ、「道」にはならない。
今この瞬間、自分の苦しみを内側から見つめ始めたとき、「道」は生まれる。
不思議なもので、そうやって歩き出した「道」には、ある種の「不受苦性」が育っていく。
多くの人が嫌がってすぐに手放そうとする、苦しみ。
自虐や我慢大会の自己満足とも紙一重の、苦しみ。
「道」を歩む者の、苦しみ。
物質界の受苦や試練、困難。
それを光で照らして意識化する働きが、「道」にあるのではないだろうか。
「物質界」と「意識界」の違いは、錬金術の基本原理に表されている。
「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし」
この基本原理に入っていこうとするとき、わたしは正直なところ、めちゃくちゃ苦しかった。
だって、あべこべなのだ。すべてが。
自分に都合のいい価値観は残して、「上」にいる奴らは「下」に蹴落として、なんてことは通用しない。
全部が鏡写しのように、あべこべになっている。奥行きでさえ。
ボディートークが扱っている「意識」の原理も、この大宇宙と小宇宙の照応法則に従っている。
下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如し。
万物の「一者」の考察によってあるがごとく、万物はこの「一者」より適応によりて生ぜしものなり。 (『エメラルド・タブレット』)
意識の原理にも、「道」の苦しみがある。
やっとタイトル通りの本題。
ボディートークは、アロパシー医学(従来の現代医療)の治療ばかりでなく、経験値からの「判断(診断)」すら、手放している。
「一期一会(観察)」に、拠りなさい。と。
「苦しみ、とってちょーだい♪」というのが基調となっている今の世の中で、経験値からの判断を手放すことが、「セラピスト」としてお金をとって開業するのに、どれほどの矛盾律を施術士が引き受けるか、想像してもらえるだろうか。
幾度となくセッションした人でも、つねに「初めて会う人」だ。
同じ川の流れには、二度と入れないように、いつもいつも、初めての川と出会う。
とはいえ、人間的なマナーや、問診の会話、変化の確認として、前回までの記憶もある程度保持しておく必要がある。
(あえて、まったく保持しないでおこうとする施術者もいます)
必要なバランスをとるための情報収集に、手順の暗記は当然として、精度やイメージを高めるための経験値や知識も必要になる。
必要だけれど、経験値からの判断は、横に置いておかなければならない。
経験値バリバリで、「先生、先生」と呼ばれてゴッドハンド気取りの治療家には、ボディートーカーはなれないし、なってはいけない。
「先生」は、クライアントの体だから。
「体」の持ち主であるクライアントは、「問題」や「悩み」や「苦しみ」を語るが、施術者はそこに焦点を置かない。
無視する、という意味ではなく、傾聴しつつ会話の内容とは焦点をずらしている、という感覚。
問題に引きずられたら、整え直す。
「どこが痛いとか悩みとかは、聞かないようにしている」と口にする施術者もいるけれど、傾聴は観察の基本中の基本だから、聞かないのとは違う。
アロパシー医学のパーツ的身体を否定しつつ、現代科学の知見は最大限に応用する。
どこまで知見を取り入れるか。
それは「観察」の精度が高まる限りにおいて。
「治す」「変化させたい」という意図を持った瞬間、物質世界に閉じこめられ、新しいエネルギーは流れなくなる。
「治す」ことでお金をいただくのが常識の業界で、徒手技法もアロマすらなく、エネルギーバランスをとることで対価を頂戴する。
それがボディートーク。
すげえ。葛藤まみれじゃん。
物質界が動かしている部分(手術や投薬)は密度があって重くて、エネルギー量は小さい。
ボディートークが動かしているエネルギーは、相当に軽く、精妙で体感しにくく、エネルギー量はとても大きい。
だから、ボディートークで対価を得ることは、等価交換の法則でいえば、実はぜんぜん高くていいのだ。
やってはいけないのは、欲望のためにエネルギーを動かすこと。
やってもいいけど、もちろん跳ね返ってくる。
お金を得たい、支配したい、名声を得たい、ぜんぶ欲望。
それが欲望であり、物質界のお約束であり、自己実現のステップであるということに気づいたうえで実行できているか。
つまり、いつもいつもいつも、「葛藤」と「相反する力の流れ」を感じながら、「物質界」と「意識界」を行ったり来たりしているのが、わたしの仕事だ。
そういう意味で、はじめて施術者になった人が、「自信がない」「できてるかどうかわからない」というのは、すごーくよくわかる。
でも、その葛藤を自覚的に引き受けている人は、少ないように思える。
今、判断しているのか、観察しているのか。
その使い分けは、意識的に両者をわけてやってみないとできない。
ギリギリまで科学(見える世界・論理の世界)の側に立つ努力をしているか。
そのうえで、科学から自由であるか。
「下なるもの」「上なるもの」が無重力の意識界で、きちんと地上をみて、方向を見定めるだけの強い自我を形成できているか。
かつ、その自我の強さから、欲望と感情と思考とを取り出し、生成・消去できるか。
そういう葛藤が見えてこない勉強会なんて、実のところ、1mmも意味はない。
葛藤をレジリエンスと呼んでもいいし、抵抗と呼んでもいい。
変容の技術を学んだのなら、抵抗があることは前菜のようなものだ。
ボディートークを経営的にどうやっていくかは、その先の話。
4月に向けて、新しい自分のボディートーク用のパンフレットをつくるつもり。
そんな意味もあって、「道」の苦しみと、ボディートーク施術者の葛藤について、思いついたことを書いてみた。
仲間にしろクライアントにしろ、ともに歩くのは、それぞれの「道」をいく者がいい。
その道が険しく、挫折や葛藤があるほど、上級コースではないか。
それともまだ、「あべこべ」だなんて思うこともなく、物質界だけを世界と信じ込んで生きていきたいのか。
あべこべの世界で、飛べている?飛べていない?
見えない意識界を「見えたフリ」で押し通そうとした瞬間、物質界に閉じこめられ、地に落ちることもある。
イカロスのように。
とどのつまり、何ができて、何ができていないのかは、自分が一番よく知っているのだ。
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