カラダの目覚めてないところを、「わたし」がどれだけ何かさせようとしても、言うことは聞いてくれない。
カラダの目覚めてないところを、「わたし」がどれだけ何かさせようとしても、言うことは聞いてくれない。
・・・よね。
だってそこ、眠ってるんだもん。
7年前。
自分が一番最初にボディートークと受けたとき、そのきっかけとなった思いを施術者にこう伝えたことを、よく覚えている。
カラダに言うことを聞かそう、聞かそう、としても、できなかった。
うまく動かそうとしても、言うとおりにはしてくれない。
でもそれって、自分がカラダの声を聞いてないからだと、ある日ハタと気がついた。
その頃はまだ、いろんな病後の影響で、立つ・しゃがむがスムースにできなかったな。
今は元気だ。
何より、よくすることに取り組めている。
太極拳からはじめて、早朝の気功を毎日続けて、おそるおそるヨガをはじめて、4年。
オイリュトミーという踊りをはじめて、4年。
まだできないことはいっぱいあるけれど、ワークショップのパートナーを得て、まだできてないこともそれは制限ではなく、広がりと可能性を与えてもらった。
* * *
カラダに、何かを「させる」こと。
ここに案外、いろんなパラドックスがある。
呼吸を学ぶとき、「腹をふくらませる/へこませる」というような指示をよく見かける。
言葉どおりに、がんばってやろうとすると、緊張して外側は収縮し、内圧はすっからかんという、とても不安定な状態になる。
ヨガやピラティスのドローイン(お腹が薄くなる)は、横隔膜が弛緩し、内圧がしっかり腹横筋でキープされている状態だから、腹直筋などの随意筋で「へこませる」と、ぜんぜん違う目的に作用することになる。
呼吸は横隔膜や腹横筋にとどまらず、一日中やっている全身運動だから、ぜんぜん違う目的に作用しているのが習慣化すると、おかしなことになっちゃうよね!
体がどこからはじまり、どう動き、どこで終わるのか。
動かしながら、感じ続ける。
つながりを通す。引っ張り合う体を感じる。
意識も無意識も、起こっていることすべてを受け取って感じているとき、「コントロールしようとするわたし」を手放すことができる。
* * *
腹横筋以外の連動も大きく使って内圧を作るのは、日本の呼吸法らしい。
オイリュトミストでわたしのヨガの先生、寺崎礁さんは、「ヨガの薄くするお腹と、日本の太くするお腹」と、両方できるといいですね、と言う。
これが絶対、じゃないのがいい。
寺崎さんは、教えすぎないのが、すごくいい。
時間をかけて自分でつかむことを、奪わない。でもちゃんと見てくれている。
わたしの周囲には、こういう素敵な人たちがほんとに多い。
何にどれだけ時間がかかるかは、一人ひとり全部ちがう。
均一な時間などない。流れいてる時間は、みんな違う。
季節だけをただ、共有している。
それってすごいことだ。
スタンフォード式「疲れない体」というのをめくっていたら、IAP呼吸という名前で、この腹を太く使う呼吸法が書いてあった。
なんのことはない、「和式」に科学的根拠がついたってことじゃないか。
* * *
わたしたちは、かくも多様な言葉を語る。
その元となるのは、和式なら「カナ」、洋式なら「アルファベット」だ。
元素から風を使って、多様な言葉、多様な世界を創造する原理を、言霊学の偉人、大石凝真素美は「金のたたり」に例えた。
「たたり」とは、織り糸をより分けるときに使う三本棒の道具。
カタカムナに興味のある人は、この言葉に「分離」「多様性」という思いが響いていることに気づくだろう。
意味ではない。「思いが響いて」いる。
このとき、たたりの棒の親は二本。
陰と陽、正と逆、内と外、と呼ばれる、相補的な二つの力の流れができる。
この二つはバランスの関係にあり、片方だけでは成り立たない。
バランスは両極とあらゆるグレーゾーンを生み出し、それを「子」と呼ぶ。
グレーに赤い血を垂らすと、人間の肌の色ができるという。
しびれるね。
わたしたち分離存在は、このようにして織り成される。
「たたり」で分けられたわたしたちの恋心は、万葉集にも詠まれている。
娘子らが 績み麻のたたり 打ち麻懸け うむ時なしに 恋ひわたるかも
(をとめらが うみをのたたり うちそかけ うむときなしに こひわたるかも)
これは麻を織る女性の歌ですね。
詠み人知らずは、宇宙の歌。
* * *
わたしたちの人体における、かくも多様な組織と、生命活動。
その元となるのは、たった20種類のアミノ酸である。
元素から風を使って織り成されるのが「声」ならば。
元素から水を使って織り成されるのは、「タンパク質」。
細胞・組織よりも圧倒的に種類が多いのは、代謝を助ける酵素たちだ。
ほぼ一人一役のスペシャルな多様性・特異性を持ち、代謝回路をくるくるまわす。
このとき、相補的なバランスの関係としてあるのは、アミノ基、カルボキシ基。
アミノ基 -NH2は、窒素と水素からなり、酸と塩をつくる。
カルボキシ基 -COOHは、水素イオンとして電離しやすい水素原子をもつ。
アミノ基とカルボキシ基が酸素と水素を出し合って、水分子を放り出し、延々とペプチド結合を繰り返し、生命活動のみえない主役たちを生み出していく。
酵素だけではなく、DNAからのタンパク質修飾こそが、わたしたちの多様性を支える発現のスイッチをつかさどっている。
わたしはこの、古い100年をひっくり返す最先端の知見を学び、代謝が実際に何をやっているのかと、血液からの分化と脱分化を観察できるスペシャリストになりたい。それがめざすことのひとつ。
この内的な生命活動と、シュタイナーの生理学や千島学説とは、とても近いところにあり、かつ今教わっている範囲でのボディートークのテクニックを超えたところにある。
というより、パラダイムごと少しシフトする。
そこをつかみたい。つかんで意識の技術へと落とし込みたい。
* * *
師は、「動き」は神経ではなく血液と言い切る。
血液の動きを、やりたい。
「言葉」が意味ではなく、思いが響いているのと、似ている。
意味や効能に収斂させてしまうカタカムナの使い方に、わたしはどうしても違和感がある。
神経系や意味や効能が不必要なのではなく、それらは結果の要素としてとても大切なものだ。
しかしそこだけ見ていても足りない。
カラダに、何かを「させる」、「わたしがコントロールできる」というエゴを手放せなくなる。
「動き」「響き」「カラダ」「言葉」の最奥部は、感覚でしかつかめない。
まだその、戸口。
それは孤独な、たった一人の作業だ。
けれど、元素が水や風で広がり、織り成され、千変万化しているこの世界は、人と分かち合うことができる。
分かれ、分かち合う熱。
すべて合わさり、ヒトとなる。
目覚める、カラダ。
目覚めよ、ヒトに。
* * *
わたしは途上である。
「わたし」である以上、途上である。
死に枯れたからだに、再び明るい意思を立ち直らせてきた。
人が灯す火は、消えない叡智の灯。
それがどんなプロセスであろうと、この7年の歩みは、叡智の賜物だ。
進む方向へ、ただ風が吹く。
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