「何をやったらいいのかわからないんです」
「何をやったらいいのかわからないんです」と相談を受けると、最初のうちは、何か答えなければならないという思いにかられていた。
現世的な職業であったり、元型の可能性であったり。
でも、そこに前提としてあるのは、「まだ何かを見つけられていない人」というレッテルだと気づいた。
生きがいをもって生き切る、何か、証明のような、根拠のようなものが、はたして必要なのだろうか。
レッテルも証明もどうでもいいと思えるようになって、楽になった。
そんなレッテルを前提にしていいほど、無力な人などいない。
そもそも生きているのだし、道は歩まなければ道にはならない。
「何をやったらいいのかわからないんです」という言葉は、つまりは「自分に適した、失敗しなさそうな道はどれですか?」という意味か、または何かをやろうというエネルギー自体が枯渇している状態を指すのかもしれない。
何が適しているかは知ったことではないが、これをやればいいのだ、という感覚は、わたしはとても強い。
最初は、高校生でエジプトの歴史に出会ったときだった。
それまでどの教科も一冊のノートもとらず、教科書も置きっぱなしで、およそ勉強らしいことは何ひとつしていなかったのに、高校二年生で世界の授業がはじまった瞬間に、ちょっとだけ変わった。
エジプトの歴史が紐解かれたとき、わたしははるか悠久の書記官になった。
そして三冊のノートを作った。
タテ糸とヨコ糸、そして、その内部。
三次元空間の場合、xyz座標の内部は時間になる。計四次元。
歴史の場合、タテ糸は時系列、ヨコ糸は地理、その内部には人間のドラマや進化がある。
だからノートは同時に三冊必要になる。
古代オリエントの国々。シュメール。ヒッタイト。そして中国、日本。
世界史のほか、国語の成績が異様によく、高校では唯一、現国の先生だけがわたしに妙な熱意をもっていた。
国語や数学などの何もやらなくてもいい教科は得意で、やらなければできない英語は、いまだにできない。来年の課題。
「あなたはぜひとも国学をやりなさい」
退学寸前だったわたしに、その国語の先生がかけてくれた言葉も蹴っ飛ばして、大学では東洋史を専攻した。
東洋史学研究会の主宰もやっていた。
エジプトに出会った時の「これをやればいいのだ」というささやかな確信だけで、数年間を過ごした。
じゃあ今なにをやっているかというと、歴史なんてほぼ関係ないことをやっている。
今、目の前にあるのは、オイリュトミー、ボディートーク、そして古事記。気功術。
どれも確信を持って、目の前にある。
「自分に適した、失敗しなさそうな道」かどうかは知ったことではないが、これをやればいいのだ。
最初から国学をやればよかったのかもしれない。
でもきっと、大学で表面的な国学だけやってたら、身体技法には出会えてなかっただろう。
「十六花弁の菊花紋」と聞いても、それをボディートーク的に脳下垂体の働きとつなげたり、シュメールとつなげたり、どの神話がいったい何を語っているのか、何も体感できずにいただろう。
点は、いつしかつながって道になっていく。
外部で語られることと、内部で語られること。
外部においてわたしたちは被造物であり、内部においてわたしたちは惟神である。
外部においてわたしたちのDNAは鉱物の言葉で書かれ、内部においてわたしたちの生命は植物の言葉で書かれている。
世界を満たしている響きを、言霊という。
響きは可能態として存在し、次元を与えると波になる。さらに次元を与えると、渦を巻く。
渦は天にあって雷(いかずち)となり、風や水の場では螺旋をなす。
この力の流れがエネルギーが物質に具現化するトーラス構造であり、骨格は64テトラヒドロンをなす。
骨格。
人体骨格。
細胞骨格。
DNA骨格。
外部における骨格は、その内部では歌として宇宙に響きわたっている。
何をやったっていいのだ。
人知の及ばないところで行なわれていることのほうが、超絶圧倒的に多いのだから。
それもまた夢の世界での、人間の活動なのだから。
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