新しい舌と、新しい言葉を生むための準備
- 2020.03.31
- オイリュトミー ボディ- マインド - スピリット
今日という日から、明日へという日に向かって、ひとつのまとめを書き出してみようと思いたった。
今、世界で起きていることからスピリットを自由にさせたい時こそ、その土台である肉体素材、有機体としての命、動物的な感情を深めてみたい。
そうすれば、次どこへ行けばいいのかが見えてくる。
人間の体って何からできているんだろう
人間の子どもは、家庭環境や社会的な教育によって育ちます。
人間の心身の成長には、自意識の目覚めや内面の育成が大切で、内側をつくるために外側の保護や指導体制が先に生まれてきてくれます。
- 鉱物的な肉体素材、
- 植物的な細胞組織化と栄養配分の仕組み、生殖機能
- 動物的な捕食行動と筋肉、それを可能にする神経系
以上の3つの要素を土台として、人間は成り立っています。まとめていえば、元素からなる肉体、有機的生命、哺乳類の高度な知覚と生殖機能という土台。
これらの土台をすべていったん外してみたとき、人間とは、言葉を話し、行為し、周囲や他者に働きかけながら、自己を知るスピリット存在であるといえます。
体験したとことを、遺伝子だけでなく、知恵として全体に蓄えることができるスゴイやつ、です。内側・外側が環境や家庭や学校によって作られたことで、体験・認識・統合のプロセスが可能になるのです。
肉体を持ったスピリット存在が、生きている人間
スピリットの大元は、おそらく想像を絶するほどの完全性とバランスがあるのでしょう。
大元から流転するわたしたちも、どこかで、完全である自分を知っています。どんな人からも、その片鱗を感じることができます。瞳の奥や、ふとした言動の隅っこに。
けれど、肉体を持ったスピリット存在である人間は、日常的には滑稽なほど不完全です。すごいことできるのに、すぐおバカなことする。
物質文明という見える世界の恩恵を受け、分離した人間関係に窒息しつつも迎合して生きてきたわたし自身にも、スピリットとしてまだ未熟な部分が山ほどあります。
だから、スピリットの環境としてシュタイナーを学び、オイリュトミーによって教育を受けています。仕事でも毎日カラダのことを学び続けています。
子どもと違うのは、魂的な、精神的な環境と教育を通して、自分を知り、知恵として全体に蓄えられるような自己教育が主眼であること。
自己認識を主眼に置くところが、今のスピリチュアルブームにあるような雰囲気とは、少し違うところかもしれません。
わたしたちはどこからきて、どこへ行くのでしょうか。
そのテーマは、人体の土台を見ればすぐにわかります。
- 鉱物的な肉体素材、
- 植物的な細胞組織化と栄養配分の仕組み、生殖機能
- 動物的な捕食行動と筋肉、それを可能にする神経系
生化学を学ぶと、鉱物が生体において、土壌にあるものとはまったく違う様相と働きをなしているのがわかります。光や熱、水によって、鉱物が発しているエネルギーは、生きた有機体としてそれぞれ役割を持ち、生命に注ぎ込まれます。
植物は、注ぎ込まれた鉱物を自らの命として受け取り、成長の素材とします。栄養配分においてうまく配分されず、変容しきれなかった鉱物は、生命体にとって毒として働くでしょう。
植物を、動物は食べます。
植物の持つタンパク質・油・糖質・ミネラルを受け取り、細胞・組織化の働き、両性生殖を引き継ぎます。
植物を食べる行為は、外へ感覚を開く神経系を準備します。
四季そのものである植物から、四季を体験する動物へと、知覚を広げます。春は筋肉を、夏は心臓を、秋は呼吸器を、冬は神経系をおもに作り上げます。
東洋の叡智は、大自然から個体を分化していく循環のリズムを、陰陽五行と名づけました。
陰陽は月と太陽。土は光と光の反射を受けて、呼吸し、知覚し、動き、心臓によって喜びと悲しみを体験できるようになります。
人体のエネルギーラインは直立している
人間は、このエネルギーラインが上下に並んでいます。なぜかというと、言葉を預かるために生まれたからだ、と、わたしはとらえています。
アダムがこの世のものの名指し権を与えられたように、わたしたちは言葉による創造行為を委託されました。
委託者って誰かというと、ギリギリ肉眼で見えるものとしては、太陽系の惑星たちがいます。
- のどに火星、
- 丹田に水星、
- 眉間に木星、
- 腎臓に金星、
- 頭頂に土星、
- 心臓に太陽、
- 生殖器に月。
それぞれの見えない力が一定の周期で運行し、働き続けてくれています。
これが7チャクラのエネルギーラインと入り口で、7つの異なる周波数を持ち、循環するリズムを構成しています。
植物を動物は食べ、動物は動物を捕食し、人間は植物と動物を食べます。
鉱物が植物に命として注ぎ込まれたように、わたしたちには植物の働きと動物の働きが注ぎ込まれています。
「食べる」とは、食べたもの素材を変容させ、働きを受け取ることです。
動物の働きには、喜びと悲しみを受け取る力があり、これもわたしたちは受け取っています。喜びを増やし、悲しみを減らそうとする欲求が生まれ、知恵が生まれ、思考が生まれます。
すべてを注ぎ込まれてきた人間は、どこへ行くのでしょうか。どこにその命を注ぎ込むのでしょうか。
わたしたち人間の本質はスピリットなので、注ぎ込むものはスピリットです。
そして、注ぎ込む先は、誰も教えてくれません。スピリットの働きとは、「体験を自己言及する力」だからです。
注ぎ込む先を、わたしたちは自分で決める自由があります。それはどっちにしようかな、という選択の自由ではありません。自分で決める自由、絶対王者である自由を説いた人に、老子がいます。
悩みや抑圧の裏にある囚われ
わたしはよく、いったい何に囚われ、何の奴隷になっているのか、ということを考えます。セッションにおいても、クライアントの悩みや抑圧の裏には、何かへの囚われがあります。多くのケースが、第一に、自分が知覚している対象に囚われています。
わたし個人は、食べることに無自覚だったなと振り返っています。こだわりがなく、食えりゃいい、という立場でありつつ、そこで受け取り続けてきたものの恩恵と破壊性に、あまりに無感覚であったと。
味覚に、文化楽しみのために、経済行為として、健康や栄養摂取で、いろんな側面でたずさわっている人がたくさんいます。わたしはそれらの知恵の1mmくらいしか持ち合わせていません。
逆に、言葉については、生まれたときから興味を持ち、自然と文法を受け取り、言葉からあらゆるイマジネーションと感情を受け取ることができます。
味覚と言葉が乗っかる場所が、同じ舌の上であることに驚きます。
無自覚だったことに気づいた今、土が注いでくれたもの、植物が注いでくれたもの、動物が注いでくれたものを味わい、味覚と言葉が生み出す喜びと悲しみを、すべて受け取ってみようと思います。
そこにきっと、囚われのない絶対自由があると。
おもしろいことに、味覚の中にも、五味があり、五音があり、五色があります。
言葉の発声にも、顎や歯の硬いところを使う音、舌を使う音、口全体を使う音、唇を使う音、喉を使う音があります。
こうした形式や仕組みの上に、無限の料理や作品があります。
具体的な料理や作品にひたすら向き合って日々繰り返すことで、味覚や言葉の根源へとまた、その広がりへと旅をすることができます。
今は、玄米に注ぎ込まれている味覚を噛み分けること。
作品は、ソロ作品としてドイツ語での「流浪の民」、日本語は「卒塔婆小町」、音楽はシューベルトの未完成交響曲やベートーヴェンの弦楽四重奏に取り組んでいます。
そして、体験から学んだ治癒、叡智、人体、認識について、自分なりにまとめていくことをはじめていて、近い将来、新しい神話を創ることに思いを馳せています。
自由への解放には、具体的なプロセスがある
わたしたちは今、世界的にコロナウイルスによって多くの人が健康被害を受け、広がりを抑えようとしている状況下にいます。
治療にあたる人、原因を分析する人、治療薬を研究する人、経済を憂慮する人、保障を考える人。
そういう公的な役割とともに、個々の生活や行動のあり方があります。
もしも、今回の世界的な出来事を、ただウイルスを抑えよう、危機を脱しよう、という動きの中だけでとらえていたら、どれだけ世界中の人が努力しても、また近い将来、同じようなことが起こるでしょう。
わたしたちは環境とひとつであり、自然界においてはすべての存在と補完関係にあるのだから。
生き生きとしたイマジネーションによって、人とのつながり、環境とのつながり、自然界のバランスを取り戻すこと。
わたしは、スピリットの育成を、体を使って生き生きとしたイマジネーションと結びつけることからはじめることをおすすめしています。
わたし自身がそれに感動したからです。
スピリットだけを育成しようとする時、陥りがちなのが妄想と迷信です。
心身の見える領域・見えない領域を合わせて扱うセッションの仕事の中にも、ときに妄想と迷信が入り込もうとし、またそれを期待されることもあります。
言語だけで情報がやりとりされる時にも、机上の空論で思考が暴走しているのを見受けることがあります。
具体的なプロセスには、妄想と迷信も、思考の暴走も入り込む余地がありません。
日々の繰り返しの中で料理し、作品作りをしている時、妄想と迷信はありません。
今日、自分のために、家族のために、お客様のために、どんなご飯を作りますか?
そしてどんなことをおしゃべりしますか?
そこに、心底の喜びと自由はありますか?
スピリットは起きていますか?眠っていますか?
先日立ち会った舞台「DUOの會」で、笠井叡先生が今は亡き舞踏家、大野一雄氏に出会ったとき、「はじめて理解できる日本語を聞いた」と感じたそうです。
わたし自身は、はじめて理解できる言葉を意識的に聞いたのは2013年で、まだ7年しか経っていません。
味覚にいたっては、2020年、今年です。
相当なスピリットの未熟さだなと思いますが、開花にそれだけの準備とタイミングが必要だったと思うことにしています。
いつだって、気づいた時が、帆を上げる風が吹いている時。
新しい舌と、新しい言葉を生むために、残りの人生を注ぎ込んでいこうと思います。
そして誰かが帆を上げたいと願った時、いつでもそれを手助けできるセッションやワークを提供していこうとも思っています。
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