沼名川の底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 得し玉かも
また大きな変化の境目のようで、予感に満ちた不思議な夜。
めったに霊的体験の話なぞしないのだけれど、深く記憶に残っているのは糸魚川。
翡翠を求めにいき、糸魚川のフォッサマグナをまたいだ時の目眩ときたら、車のハンドルを取られたほど。
ここで日本は二つの国に分かれているんだ!と思った。
それから姫川を上流へと登っていく時の、古代感覚が呼び覚まされるような山々からのメッセージ。
「思い出すのだ、思い出すのだ」と呼びかけられる声がするので、何か言葉になるのかと思ったらそうではなく、ただ強烈な身体感覚のみ。
震えるような、頭が割れるような。
出雲の大国主と新潟を結ぶ、奴奈川姫の眠る川。底なる玉。
古代日本の風土や神とのこうした同調を感じると、ああ日本人なんだなあと思う。
この土着の身体性は、ボディートークのように北米で高度に抽象化され体系づけられた概念的身体とは相いれず、違和感ごと保留にして、分けて考えるようにしている。
現代日本の生活様式の点では北米の概念的身体でいいのだろうけれど、たぶんこのままではない。
土着と舶来の身体は、今のわたしにはただ違和感のみで明確に分かちがたく、オイリュトミーでの日本語形成の稽古に、大きく救われている。
よく悟り、覚醒というけれど、直立し言葉を持ち、「わたし」を感じた瞬間が最大の目覚めだと思う。
直感と運動・行動が結びつき、神と不可分だった直接体験の世界。
そこから飛躍して、知覚を語る、体験を語る、わたしを語る、概念の世界へ。
直感と運動が結びついた土着の身体性を回復したら、もう一度わたしは、意識的な分離によって言葉を得るのだ。
生まれ落ち立ち上がり、言葉を得た自分へと。
その地平で、あらゆる存在に浸透する生命力と出会う。
言葉による対立もせず、直感による同化もせず。
ただひたすら出会う。
大地に、海に、草花に。
太陽に、月に、星に。
魚と、鳥と、獣たち。
色と香り、風、ひとびと。
天地の創造行為が、言葉による命名行為であるところの由縁。
音と響きを浴びるほど身体に入れたい。
明日からまた、新しい一日。
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