本当に会いたいものに願いをかける日。
- 2019.07.07
- 日々のこと
わたしが創り届けるものは、わたしがそうされたように、誰かの魂を震わせ、
わたしが引き出したフォーミュラは、きっと多くの人の役に立つだろう。
今日は七夕。
衆議院銀選挙が2週間後。
選挙カーや演説の声が大きくなってきましたね。
今朝、価値観と優先順位の整理をし直していて、ふと選挙演説の声に耳を止め、あらためて政治や人生という大きなテーマに思いをはせてみました。
わたしたちは、どんな世界で、どんな社会で、どんなふうに暮らしたいのでしょう?
心から会いたい人。健やかな体。住みたい場所。
自分自身の魂にも、もっと触れていたいですか?
どんなことも超えていける精神の成長にも、心を向けていますか?
七夕は、本当に会いたいものに願いをかける日です。
* * *
願い。
わたしの大学生のころのビッグテーマは、「アジアの目覚め」でした。
近代的な国際経済、武力、国際的な外交が入ってきたとき、アジアの大国は壊滅的な打撃を受け、港は新しいヒト・モノ・カネの出入り口となり、否応なしに近代的資本経済構造の中に組み込まれていきました。
その出来事がいいか悪いかというより、構造を見る目、変化を見る目、古い実証主義的な歴史観から、相対的で学際的な概念を自分の中に育成することがテーマでした。
当時は実証主義的な教授からも相手にされず、文部省の選考にも落とされ、いろいろと未熟だったなと思います。
そんな挫折をへつつも、政治的な側面では今でも「貧しさの構造を変えたい」という願いを持っています。
こうしたことに興味や価値観を持つきっかけは、幼少期の体験が大きいかな。
子どもの頃、家は祖母が雑貨屋、両親が公務員で、物質的な貧困はありませんでしたが、いろんな差別を経験しました。
毎日学校帰りには、雑貨屋の店番や配達を手伝います。
その後、兄は勉強してもよいのですが、わたしはしてはいけないのです。
教科書や本を開いていると、よく怒られました。
「女は勉強しなくていいと」
それで、わたしは晩ご飯の手伝いをします。
一つ上の兄とわたしに与えられるものは、食事もお小遣いも、相当なえこひいきがありました。
その頃のわたしには、自分に与えられたものは目に入りませんでした。
自分だけ禁じられたこと、与えられなかったもの。
そればかりが思い出です。
人を腐らせるのは、「比較」だなとつくづく思います。
宿題も勉強もやったことはありませんが、地頭はそこそこよいので、田舎の中学校レベルでは、なんなく一番でした。兄ももちろん一番です。
そうしたら、わたしに勉強や読書を禁じていた祖母が、一万円をくれました。
どうやらそれは、ご褒美のようでした。
雑貨屋で、昔ながらのビンの牛乳を売ると、一本2円の利益です。
一万円を得るには、牛乳を5000本配達しなければなりません。
女は勉強してはいけないけれど、家の世間体はよいから、祖母にとっては大金の一万円が、わたしにふるまわれました。
小学生がリアカーを引いて、牛乳配達する苦労を、わたしは知っています。5000本分。
(なんだこれ、フランダースの犬っぽい)
女だからという制限を受けて悔しい思いを毎日抱いていたわたしの傷に、そのご褒美の苦労と祖母の愚かさがなすりつけられ、あまりの理不尽さに、ひとり竹藪に走っていって号泣したのを、今でもよく覚えています。
それは学期のたびに二回、三回と続きました。
それからはもう、試験で正解を書くことを、放棄するようになりました。
今のわたしは、学習の仕方をよく知っています。
学習は目的ではなくプロセスです。
ほかでもない自分のために、目的に向かって、使えるように自分で考え、工夫すること。
わたしの学習は、使える学習法です。
(今、わたしと一緒にいろんなことを学ぶ場、用意してますよ!)
* * *
家族はみんな働き者で、生活はまあまあ中流に豊かでしたが、雑貨屋に並べられる商品は、年々貧しくなっていくのを、わたしは肌で感じていました。
貿易が自由化され、新しい輸入品が入ってきます。
食品は工業化され、いろんな添加物が加わるようになりました。
包装はどんどん目を引くようなものが工夫されていくのに、品物から受け取る感覚は、貧しさと、その経済構造のあざとさでした。
ものごとの本質を見極められるようになるために、その来歴を想像するトレーニングがあります。
何からできていて、それらはどこから来て、誰が関わり、今こうして、わたしの目の前にあるのか。
ものごとが自分自身の「縁起」を語りはじめることができるよう、イマジネーションを働かせていきます。
これはシュタイナーを知ってからはじめた訓練ですが、小さいころの雑貨屋で感じていた「モノの感覚」にとてもよく似ています。
* * *
差別と貧困の構造。
いずれにしてもわたしは、長いこと、奪われたもの、制限、豊かさのふりをした貧しさばかりを見て絶望していました。
現代のスーパーに、味覚と内分泌を狂わせる食品が色とりどりに並んでいたとしても、そこには、生産・製造・流通・小売まで、たくさんの人のエネルギーがかかっています。
比べてないものねだりをしたり、問題ばかりを見つめていると、すでに与えられているもの、目の前の豊かさ、人のエネルギーに気づけません。
経済構造、政治、戦争。
大きな問題、社会の出来事に、わたし個人の注げる力は、ほんの少しです。
でも、バガヴァッド・ギーターを読んで、「現実」に見えるものにどう対処すればいいのか、今ならわかります。
それは、内側の知覚を変えていくこと。
わたしは、貧しさの構造を変えたい。
資源や資質を持つもの・持たざるものの二分に価値づけすること。
現状に固定する思考、誰かのせい、先入観、古い思考様式、恐れからくる行動。
どれも貧しさを生みます。
二分された価値観に固定された世界を、あらゆる可能性に満ちた世界にしたい。
食べるものも着るものも住む環境も、古い構造からくるのではなく、新しい世界から流れてくる、豊かで最上のものであるように。
構造を変える必要はなく、人のセンス(価値観)とエネルギーを注ぐ先を、ただ変えればいい。
エネルギーが注がれなくなった車は、止まるしかない。
本当に幸せだと感じるものは、なんだろう。
狂気じみた世界にも光る命、素敵なもの、魂を震わせてくれるものを、見つけることができる。
シフトした世界から流れてくる、豊かで最上のもの。
そうしたものに囲まれ、自分も創り手である。
そして、創ったものを届ける先があること。
届ける先があるのは、素晴らしいことだ。
この言葉も、そんなふうに届くといいな。
目線を変え、方向を変え、歩きはじめた瞬間に、幸せなプロセスが始まっていく。
わたしは何のために生きているのだろう。
わたしは無限の潜在能力を自ら引き出すと決めたから、そこにチャレンジしているにすぎない。
宇宙の法則と美を、物質世界に顕現する媒体となること。
そのために、現在地から目的地に対し、どんなエネルギーを注いだらいいのか。
それはフォーミュラで表される。
愛ある眼差し、勇気のでる励まし、人のパワーとサポート、資金、チャンス、時間。
すべてがエネルギーだ。
わたしが創り届けるものは、わたしがそうされたように、誰かの魂を震わせ、
わたしが引き出したフォーミュラは、きっと多くの人の役に立つだろう。
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