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卵は内なる闇の世界から割られなければ、死んでしまう

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誕生月には、大先輩CBPの山城賀子さんに、アストロロジーを見てもらうことにしています。
年に一度の占星術鑑定。

占いでもなく、人生のアドバイス的な匂いも皆無で、「この時期には、星がここを照らすので見えやすくなる」という、計算と抽象の世界。

「見えやすくなる」というのはあくまでも地球的な感覚で、物質化した地球は「照らされないと暗い」のが前提にあります。

わたしは「暗くても見える感覚」を養う目的があり、光の移り変わりを知りたくて、山城さんのアストロロジーを楽しみにしています。

この、どこに闇があってどこに光があるのか、という感覚は、単純に見えて頭では理解しえない部分もあり、ある一冊の本から、光と闇について/善と悪について、書いてみようかなと思います。

* * *

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シューレの先生に薦められて、きのう本を一冊買ってきました。

『なぜ私たちは生きているのか』


シュタイナー人智学の高橋巌先生と、かつて外務省のラスプーチン、今は本を出しまくりな佐藤優氏の対談です。

高橋先生がヘッセの『デミアン』のことをたくさん語っておられます。

デミアンは、人間が楽園追放いらい宿題にしている「善と悪と」の関係を、ひとりの人間のなかに美しい矛盾として凝縮させ、シンクレールという少年が「彼」と出会い、心を揺らしていく物語です。

わたしのデミアンの印象は、自らの尾を飲み込む蛇、ウロボロスです。
読んだのはたぶん10代なので、もうあらかた忘れちゃいましたが、印象は覚えているものですね。

善は自己目的化したとき、悪を生む。
悪は自己目的化したとき、快楽となる。

快楽は自己目的化したとき、滅びへ向かう。

なぜ肉体的感覚器官に快楽がプリセットされているのか、興味があります。
たぶん、そうでないとみんなとっとと肉体を離れようとするからかな。

破壊衝動を内包しつつ、悪が悪でありつづけるのは、そうたやすくないのかもしれません。
善はほっときゃ腐るし、快楽は怠惰と過剰へ傾くし。

デミアンには、「ありつづける」意志、プシュケーを感じます。

わたしたちは通常、呼吸という方法で「ありつづける」意志を表現しています。

それはオギャー!という誕生とともに始まり、今なお続いています。
与えられた呼吸器系、循環器系とともに、呼吸し続けています。

この呼吸は、ほぼ無意識でなされています。

ところがある日、「ありつづける」意志を、自らの意識にのせる時がきます。

 「わたしは息をしている」

 「わたしは息である」

この気づきは、ウロボロスの蛇にとっては、脱皮、あるいは宇宙卵からの孵化ともいえます。

脱皮も孵化も、それは必ず内側からなされます。

自らが内側から殻を破ろうとしないかぎり、それは死んでしまうのです。

その内側こそが闇の世界、デミアン的な悪の世界です。

いつまでも「悪」を外部に置いて、それが世界だと信じ込んでいる時代は、もう終わりにしたいものです。

* * *

もっかい本に戻ると。

後半、お二人が「かなし」という言葉について語っています。

佐藤さんによると、琉球語には「愛する」という言葉がなく、「かなしゅん」というんだそうです。

古い日本語でも、「かなし」は「愛しい」と「悲しい、哀しい」の両義をもっていますね。

わたしは今、「一音一義」の超古代日本語にハマってるので、「かなし」をこう受け取ります。

「か」は最大、「な」は「なる」、「し」は、それが外に照らされ、我が身に映る。

こぼれるほどに満ちあふれた心が、外から照り返され、「かなし」と内側で響く。

もっと時代が下ってくると、人間は「かなし」の響きを、空気言語で発声できるようになります。

空気言語(現在の人間骨格)の時代になると、「か」も詠嘆、「な」も詠嘆、「かな」も詠嘆の意味を持ちます。

詠嘆とは、こぼれるほどに満ちあふれた心の響きが、声となり、歌となることです。

「かなし」は、内側の闇がすべて流れ出て、外なる光に注ぎ込まれた、圧倒的な感情を響かせています。

光に注ぎ込む作業を、心臓は愛、喜び、悲しみとして経験します。
光に注ぎ込まれず肺にたまると、肺はつぶれてしまうのです。

* * *

誕生してからこの方、呼吸のために拍動しつづける心臓を、わたしたちは「ポンプ」の働きと習います。

ポンプの水利システムでは、毛細血管に血液は行きわたらないことを土木学から計算し、独自の健康法を提唱したのが西勝造さんです。

「わたしは息である」という気づきが全細胞に行きわたったら、体は一変するでしょう。
全細胞の意識を、「わたし」が知ることになるのですから。

それは超絶な、「かなし」の詠唱です。

しかし、いろんな情報があっという間に手に入る便利な時代は、言葉もあっという間に手に入ります。

ものごとの本来を自覚することを、古来から「悟り」と呼ぶようです。

物質化した世界で、ヴェールをかぶった宇宙の実相を悟り体験する技術は、さまざまな宗教儀式や秘儀にあります。

それらの術は、「伝授」によって知らなければ、何の意味ももちません。

「印を結ぶ」とかもそうですね。

日本人は合掌はおなじみだし、ヨガのムードラにもあります。

臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!と刀印を切るようなのもありますね。
(波動の低いおばけが見えてしょうがなかったときは、よくやってました)

「伝授」は「先生から教えてもらう」のではなく、「共鳴」とほぼ同じ意味だと私は思っています。

「共鳴」できる準備が整った。

整ってなくても「Google先生から教えてもらう」時代が、現代です。

共鳴がないと、儀式は形式化します。

共感がないと、言葉は形骸化します。

そして蛇はあっという間に本来の目的を忘れ、自己目的化して滅びていくのです。

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明日は立春ですね。

こうも意識の波動が上がってくると、物質が重く感じることが増えます。

先月の1月は、わたしはもう現実が消去されかかる感覚で、逆にぐっと重く重く過ごして、物事が消えないようにしていた感があります。

体調を崩していた方もたくさんいるようです。

現実との折り合いも、大切。

というか、「現実」というバーチャルを作り上げてきた感覚器官との統合作業のために「快楽」があるので、「快楽」を追求したいです。

わたしは放っておくと隠遁生活を快楽としはじめるので、意識的に外に出るようにしてます。

外の光の中で、愛と喜びと悲しみがすべて注ぎ込まれた「かなし」の響きを体験する、その響きを空気音声や音楽として、人と時空共有する。

そういうのをやっていきたいのです。