自分に価値があるかどうかなんて、自分で決めるな。


日曜は一日、決算期でおしりに火がついたデスクワークDAY。
やー。シューレにかまけすぎてたなあ。


「わかりにくい」と言われるボディートークを、自分の言葉で「説明」してみようと、いくつかの記事を書いていたのも、一段落した気がする。

また具体的な症例紹介やお客さまの声を再開していくことも少し考えたけど、どうしても「施術者が治療をしている」ニュアンスが強くなってしまう。
公開したそばから言葉が冷えていくのが、いやなんだ。


その人がその瞬間、いちばん柔らかくなっているところ、いちばん無防備なところ。
施術中でも、それを言葉で伝えることはほとんどしない。
ましてやブログで掲載するときは、ボディートークの研究や告知のためと思っても、胸がチクチクしてしまう。

やるとしたら、クライアントが自分で治癒や成長のプロセスをたどれるようなセッション記録のカルテノートを作ろうかな。

うん。

カルテノートはふだん、クライアントが持っていて、自分で変化や気づきを書き込んで、セッションになったらわたしが書き込んで、お渡しして、次のときに持ってきてもらう。

そんなふうに、ともに成長していく。


* * *

先日、とあるクライアントさんと「仕事の肩書きをつけた人は、いくらでも残酷になれる」という話をした。
仕事なら人を殺せるのは、兵士だけではない。
売らんかなの製造業も、人生に判を押すお役所仕事も、PVを上げるためのライター業も、いくらでも無神経に仕事に没頭できる。

どの業種が、ではなく、どんな仕事でも、他者への慈悲と無慈悲が入り混じる。

だからわたしは、「生きがいと喜びのある天職探し」ってやつには、眉につばをつけてかかる。

「天職」という言葉の裏に、働けない人が「生きがい」を自己証明する余地は、ほとんどない。


神に存在証明が要らないように、人間にも存在証明は要らない。

だから、自分に価値があるかどうかなんて、自分で決めるな。

自己否定感や自己無力感の反対は、自己肯定感ではなく、証明不要の自己存在だ。


「好きなことが見つからない」のは、単なる無知からくる。

楽しみ方を知らないだけの、無知。


人が楽しそうにしているのを外から眺めてるだけでは、ぜったいに楽しくない。


自分の呼吸を知るだけでもめちゃめちゃ楽しいと思うんだけど。



* * *

わたしはTwitterもInstagramもfacebookもやってないので、「#MeToo」の話題を全然知らない。

セクシュアルマイノリティにとって、性的被害やパワハラについて明確な立場をとることは難しいなあと、よく感じる。

ボディートークのように、記憶やアイデンティティから重荷を降ろしていくような療法では、少数者・弱者・被害者のカテゴリはとてもセンシティブだ。
ひとつの人生だけではわからないことなのかもしれない。

クライアントに余計なストーリーを加えてしまわないよう、ただそれだけに留意する。

まるで#MeTooの時代を逆行しているようだけれど、必要なときには、必要なことが起こるはずだ。


わたし自身は「トリニティ」が「父」から始まる時点で思考停止してしまい、その言葉を中和して受け取れるまでに相当な時間がかかった。陰陽についても、しかり。

人間は宇宙法則を家族用語で記してきた。
古事記もそうだけどね。

だから、家族のこと、または性のことを取り上げる時は、死んだ言葉に命を吹き込み直さないといけない。


まあ、いろいろあったけれど、中和にいたるまでの葛藤やプロセスのおかげで、創造主や陰陽という言葉から連想される勝手なイメージの思い込みから、自由になれている感覚はある。

それでよし。

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