光脈のこと。古事記と日本語文法、生理学を結びつけるオイリュトミー


先にちょっとお知らせ。
2018.1/12(金)の高田馬場ワークルーム、勉強会の前にポコンと一枠空いている。
16:30~、どなたかセッション受けにいらっしゃいませんか?

* * *

『蟲師』の光脈

『蟲師』の光脈



『蟲師』という漫画、そのアニメ化された作品をご存知だろうか。

蟲(むし)は動物とも植物ともいえない、人とは棲む世を隔て、ふつうの人の目には見えず、しかし人と蟲とが重なるとき、不思議なことが起こる。生命の原生体のようなものだ。
蟲の妖気にあてられると、人は病気になったり心を失ったりする。

蟲師(むしし)は、蟲の祓いや薬作りをなりわいとした旅の者たちだ。

この生命の根源ともいえる蟲たちが放つ光の河を「光脈(こうみゃく)」という。
地下深くを流れるといわれ、光脈から光酒(こうき)がとれる。
治療ばかりか不老不死や死者の甦りまでもできてしまう、それはそれは美味い酒だそうだ。

山はこの光脈によって精気をもち、緑を茂らせ、四季をめぐらせる。

現代の世なら、これは微生物の生態系と呼ばれるものだろう。

微生物はわたしたちの腸内や土の中にいるだけでない。
人間の身体の9割が微生物だと言われ、ボディートークでもその研究をすでに応用している。

空中にも山にも海にも、どんな温度のところでも微生物は生きている。


わたしはかつて一度だけ、「光脈」を見たことがある。もう30年も前に。
いや、そのときはこのアニメを知るはずもなく、ただただ圧倒的な光の河で、そこにあらゆる生命体が見えた。

いまだにそれが何なのかはわからないが、『蟲師』のアニメを見たとき、「ああこれだ」と感じた。


それはある種の天啓のような、神秘体験のようなものだった、ともいえる。

とはいえその体験から何も宇宙のメッセージやビジョンらしきものを受け取ったことはない。

しかし、「光脈」を思い出すたびに、何かに駆り立てられるような思いがし、やるべきことに向かって背中を押されるようなことがよくある。


『金鱗の鰓を取り置く術』笠井叡

『金鱗の鰓を取り置く術』笠井叡




背中を押され、導かれているもののひとつ。
例えば、古事記。

古事記は、オイリュトミーシューレの師、笠井叡先生が、このたび日本語オイリュトミーの精髄として、『金鱗の鰓を取り置く術』(大石凝真素美『真訓古事記』備忘録)を上梓された。


ものすごい本である。

師の本と日々の稽古にどう向かうか。
そしてわたし自身が大石凝真素美の『真訓古事記』に向かうにあたり、また宇宙創造と身体の成り立ちに言霊学を通して向き合うにあたり、わたしはどのフィールドから古事記を読めば良いのか。

そういうことを「光脈」が教えてくれる。
「光脈」は何も教えてはくれないが、光の中にあったものたちが何なのかを知りたい・ふれたいと思いながら、生きている。


古事記は、ふつうに神話としても読める。
『ホツマツタヱ』などを研究している人は、古事記を改ざんされている、という。
神話から古代史に限定してしまうと、そういう読み方しかできなくなるのだろう。

天文、地理学、歴術を示す書としても読める。
日本の言語学の書としても読める。
占術の書としても読める。


わたしは、ふたつのフィールドから『古事記』を読もう。

ひとつは、どのようにして宇宙意識が自らを認識できるように分霊したのか、つまりどのようにして外界=自然界を創造したのか、そのメカニズム。外に作った世界は感覚がなければキャッチできないわけで、内在化して受け取る感覚の仕組みもそこに含まれる。

この仕組みは、日本語文法だけで作ることができるはずだ。
だから、ひとつめのフィールドは日本語の言霊法。

ふたつめのフィールドは、『古事記』だけを読んでいてもわかりにくいのだが、神代文字や弥生語を読んでいくと、現代の生理学を学んでいるのと、ほとんど同じ気分になる。
つまり、古事記は生理学の書としても読める。

どのようにして人間が「飲食」という行為体験を可能にしたのか、どのようにして人間が「受胎と死」という行為体験を可能にしたのか、どのようにして人体の恒常性と排泄機能、そして自意識をもつことを可能にしたのか。
古事記にはそれが書いてある。
でも、これらは生理学の知識がないと明らかにならず、かつシュタイナーの生理学まで広げないと、古代文献と生理学のつながりはみえてこない。
さらにいうと、ボディートークには現代の生理学と陰陽五行との結び目があり、そこまでもっていってはじめて全体像がみえてくる。


これまで古事記に抱いていたイメージ。マニアックな古文研究やら陰陽師ごっこには、まったく興味がない。
神社好きの人たちもたくさんいらっしゃるが、わたしは実のところどうでもいいと思っている。
神社や地理は地球身体に関係があるのだが、それはそういうのが好きな人にまかせたらいい。


「飲食」体験、「受胎と死」の体験、自我の成り立ちを深い意味で知ることは、未来のわたしたち全員の身体に、直接影響のあることだ。

なぜなら、飲食、両性生殖、自我、それらをすべて超えていくのだから。
これがヨハネの黙示録であり、シュタイナーでいうところの木星紀への進化である。


言霊学は、ネットを検索すると、いろーーんなのが出てくる。
引き寄せ、ヒーリング、成功、開運。

そうした豊かさは結果でしかなく、言霊を使う目的にしてはいけない。

なぜ言葉は、体から離れるようになっているのか、考えたことはあるだろうか。

言葉はわたしのためではなく、あなたのためにあるからだ。

「あなたが存在する」という外界の奇跡のために、言葉はある。

「わたしが存在」するとき、言葉は意味を失い、光となる。


引き寄せ、ヒーリング、成功、開運もろもろすべて、それらは言葉を使った現実創造、またはエネルギー変換だ。
これは魔法ではなく、人から武力で奪い取ったり、薬で治したり、競争に打ち勝ってのし上がったりするのと、たいした違いはない。


言霊のほんとうの魔法の部分というのは、「目的そのものが叶う」ということにある。

これは突き詰めていくと、とても怖いことなのだ。

「目的そのものが叶う」というより、毎秒毎秒、一瞬一瞬、すべてが叶っているといっていい。

すべての言葉は、わたしたちの最奥部から、放射し続けている。
ひとときも休むことなく。


オイリュトミーは、この放射をもう一度動き(doing)に戻し、存在(being)に戻す働きがある。

わたしたちが名づけることで創り上げたこの世界。
誰かが痛み、誰かが死にうめき、誰かが貧困にあえぎ。
これらの原因は、わたしたちが弱かったり怠惰だったり誰かを憎んだりしたせいではない。

引き寄せ、ヒーリング、成功、開運、もろもろ。
わたしたちの無邪気な願い、無神経な目的が生み落した、もうひとつの結果なのだ。
これをニュートンの第三法則という。
感覚世界(顕在意識)で何かを願うことは、必ず反作用をもたらす。
感覚世界(顕在意識)からのみ自然界を分析し、利用することは、魂を枯らしていく。

オイリュトミーは、このような感覚世界の創造法則を変換していく技法である。
超感覚とは、超能力とか霊能力とか、そんなものではない。

* * *

以前、わたしが思っていることは、何ひとつうまく言葉にならず、理解されがたかった。
「光脈」しか、自分がこれだと思えることの拠り所がなかったから。

今は、「わかる」と言ってくれる人もいるし、「おもしろい」と言ってくれる人もいる。
オイリュトミーやボディートークの技術や知識を磨ける環境にある。

ありがたいことだ。

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