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日常の体と、旅する体

日常の体と、旅する体

日常の体と、旅する体ってどういう感じだろう。そう考えた時に思い出したエピソードがあります。

日常の体

数年前、隅田川の大花火大会を見物に行きました。地元の友人の誘いだったので、穴場スポットを陣どります。その区域は広い道路が封鎖され、ご近所さんたちがゴザやちゃぶ台、ガスコンロ、電気の延長コードまで持ち出して、色とりどりご馳走を並べ、くつろいで酒を酌み交わしていました。

地元民の特権的な楽しみ方。お茶の間、台所、お座敷が、そのまま外へ広げられ、路上を埋め尽くしているのが圧巻でした。

スマートフォンという道具は、この隅田川の地元特権を誰もが手に入れられるようにしてくれます。どんな世界も、どんな場所でも、くつろいだ日常身体で眺めることができる。
これは見られる側の権威の崩壊も意味していて、何を眺めてもリアルタイムで率直に自分たちの感想を分かち合うことができ、どんなヤジを飛ばそうが、見る側の空間的な日常はデバイスを隔てて守られています。

反面、私たちは日常の体以外の使い方をすることが、めっきり少なくなりました。知らない道を歩く新鮮さも、光の見えない孤独も、待ち合わせの不安も、画面を介さない生々しい感情も、便利な道具のおかげで、あえて機会を作らないかぎり、体を通り過ぎることがあまりありません。

旅する体とは、未知に出会う体です。毎年恒例のお楽しみや、守られた気楽さとは違うもの。

古い音楽、千年の時を経た和歌などに出会うとき、既知の日常身体だけでは味わいきれない情感がたくさんあります。

古いものばかりでなく、巡りゆく季節も、明日の夜明けも、この一瞬も、本来はすべて未知なるものなのでしょう。日常の体と、旅する体、両方をうまく使い分けられるといいですね。

肉体と意識変容の旅

私たちの肉体と意識は、長い宇宙的な年月をかけて変化を遂げてきました。これからもまたとどまることなく変わりゆく旅の途中に、私たちはいます。

私はこのブログで、肉体と意識の変容について、ある程度まとまったものを章立てて書いていこうと考えています。

その内容が、一人ひとりの切実な、自由な、解放の旅に沿うものであること、魂に触れるものであること、魂が細胞レベルで肉体に息づくことを願っています。

もしかしたら読みにくい、分かりづらい箇所もあるかもしれません。けれどなるべくなら、私たちの限定的な日常感覚にのみ引き寄せるのではなく 、旅の体でしか出会えない、未知の味わいを届けて行きたいと思っています。

旅する体

試しに、平安時代の晩秋を和歌で旅してみましょう。

 心あてに 折らば折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花

(当て推量で折れるなら折ってみようか。初霜が降りて見分けにくくなっている白菊の花を)

当時のスター歌人だった凡河内躬恒(おおしこうち のみつね)の作で『古今集』に伝えられています。

折るという動作、結晶化した大気、目の錯覚を誘う白菊の花。いろんな身体感覚を「心あてに」という初句の字余りが遊び心でとらえていて、『百人一首』のなかでも大好きな歌です。

そしてこの歌には、「心」「折ら」「霜」「置き」など「O音」ファミリーが多数登場します。「O音」は唇をすぼめる柔らかい響きで、そこにアクセントの「あて」「初」「花」の「A音」が鮮やかに響きます。

体にこの歌を響かせると、腹部の消化器系が眉間の下垂体で意識化・活性化するでしょう。

自分の頭の中の意味に押し込めてわかろうとするのか、手や目に冷たい霜や白菊を乗せていくのかで、体はまったく変わります。イマジネーションは、私たちの肉体を取り巻く見えない体(アストラル体)を育ててくれます。

アストラル体の変化は、肉体の細胞レベルにまでもちろん伝わり、呼応します。

響きを体と結びつけて感じていくと、身体感覚が微細になり、意識化できなかったようなところにも灯りを点していってくれます。

体の中にどんな響き(周波数)を通したいのか、私たち人間は、それを自由に選ぶことができます。

人との交流も、水も、食べ物も、知識も、音楽も、言葉も。

何を通すかは外から入ってきますが、どのように通すかは自分の体内で決まります。実際に旅をしていても体は日常のままかもしれないし、家にいても体は旅の体験ができます。

易と出会う、陰陽の相対的な身体感覚を見つける

ボディ – マインド – スピリットを、ぜんぶ使って生きてみよう。それって、体だけ、心だけ扱うのとどう違うんだろう。どんな変化が物質レベルで現れるんだろう。

もう何年もこう問い続け、いろんなことを試してきましたが、なかなかぴったりと結びつけられるものがありませんでした。自分の中にはあっても、それをどう説明していいか分からないことも。

「易」に取り組み始めたら、いろんなことがつながり始める感覚がありました。オイリュトミーでやっている音の響きや色と動作言語の関係。天津金木で体験する宇宙の創造と進化。アカシックレコード。もっと日常のこと。日々の暮らし。人生でやりたいこと、やめたいことを決める具体的な時間の流れ。生を実感すること。健やかであること、心の闇が光を生むこと。

「未知なる体内と内面の自由」という分かりにくいテーマは、「既知の日常と人との関係性」という見えやすいテーマにつなげないと、絵に描いた餅のようになってしまいがち。だからこそ、この二つのテーマをつなげてくれるものが必要で、それは「易」でつくる相対的な身体感覚にある、という確信が持てたのです。

そしたらようやく、新たなブログの意欲、新たにお客様とどう関わっていくのかが、見えてきました。ふだんマイナーなことばかりやっているので、易のようにある程度一般的に広がっているものは、会話に安心感が持てていいですね。

「易」といっても占いをするわけではなく(占いもできます)、陰陽から生まれてくる動きの質、形作られるものの相を感じて、自分のエネルギーに取り込んだり、いらないものを外したりします。そして、それが実際の生理学やホルモンとどう関連づくのかを探求しています。

ボディ – マインド – スピリットが、ぜんぶ生きる。その仕組みと実践を私の言葉で紹介していきますので、どうぞお楽しみに。まとまったら、みなさんとリアルで会ってワークや座学ができるセミナーを開いていく心づもりです。

どうぞよろしくお願いします。